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刀影摘録・神津伯押形 刀装小道具銘字大系・若山猛 京後藤の研究・笠原光寿・秋元繁雄等刀剣書お譲りいただきました。

刀影摘録・神津伯押形

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担当スタッフより

刀影摘録・神津伯押形等刀剣書お譲りいただきました。第三弾

刀影摘録・神津伯押形 富士川金二

日本美術刀剣保存協会の資料室には、多くの刀関係の貴重な資料が所蔵されていますが、 この中に神津伯先生がご寄贈下さいましたもので、先生が明治、大正、昭和の三代にわた って研究されました古刀、新刀の貴重な押形集があります。 「先生は、明治の大鑑識家であった今村長賀先生に学び、古刀、新刀の研究に専念され、 その独創的な体系づけは、著書『新刀鍛冶綱領』や 『日本刀研究の手引』によって窺うこ とができますように、刀剣研究のうえに極めて画期的なことであります。

今回出版いたします押形集は、かつて先生が出版を企図されながら、戦時下、戦後の窮 迫した事情に阻まれ果たされなかったものであります。昭和二十三年初春の御自記の「緒言」によって知られますように、押形の一葉一葉は、先生が日本刀研究の骨子となるものを選 択し、ここに詳細な注釈を加えられたもので、なかには、既に消失したであろう名刀をも 含む、極めて貴重な資料ということができます。

昭和二十三年、上野の東京国立博物館の応挙館で先生の喜寿の祝賀会でお逢した折、こ の押形集の記念出版のご意図をお伺いしたことを追懐し、このたび当協会の事業として発 行することになりましたことの奇縁を思い、つつしんで先生のご宴福をお祈りしこの書を 世に送るものであります。

昭和五十九年十一月吉日


 

得難い資料が満ち満ちて
加島進

– 神津先生を存じあげたのは、私が日本美術刀剣保存協会に就職してから暫く経ってのこ とであり、また御指導をうける期間も短かかったが、先生についての印象は常に姿勢が正 しく、御性格は謹厳そのものであられたことである。

『新刀鍛冶綱領』や、『日本刀研究の手引』などは、先生の代表的著書としてよく知られ ているが、今回出版されることになった『刀影摘録 神津伯押形』は、かつて蒐集された質・ 量ともに尼大な押形を丹念に整理され、それを五畿七道に分け、年代別に古刀から新刀を 通して分類されたものである。私達は、戦後多くの刀剣を見てきたつもりであるが、それ らが殆んど網羅されていることに一驚するもので、しかも、今日全く眼にふれることが出 – 来ない貴重な押形も多く含まれていて、これを拝見すると私達は大いに勇気づけられ、広く刀剣界の研究面に一段と拍車のかかることは言を俟たない。豊富な内容のうちには、徳 川将軍家をはじめ、前田、松平、伊達、山内、奥平、土屋、黒田、大河内、本多、島津、鍋島、その他の大名家伝来のものや、明治から昭和にかけての著名なコレクターのもの、 更には社寺の蔵品にも及んでいて、今日得難い資料が満ち満ちている。一口一口には注記 があり、同じ作者の押形が多く所載されていることも有難い。勿論、古刀が主体で、新刀は代表工に限っている。


刊行にあたって

本押形集は神津伯先生が亡くなられた直後の昭和二十六年四月に、遺族から財団法人日 本美術刀剣保存協会に寄贈された資料類の中に含まれていたものである。この資料類の 中で、最も資料価値が高いと認められているのが本押形集である。

その後、協会が東京国立博物館内の事務所から現在地の刀剣博物館内に移るにつれ、協 会の蔵書として移管されたのであるが、ごく一部の人からのみその存在が注目されつつも、 公開される機会がないままに今日まで伝えられてきた。このたび『刀影摘録神津伯押形』 と題して刊行されるはこびとなったのは、協会の蔵書が秘蔵されることなく、広く斯界の 愛刀家、研究家に禅益することになるならば、との富士川金二会長の配意にもとづくものである。 

本書の刊行が協会の刀剣普及事業の一つとしてなされることに鑑み、小社が刊行を通じ て、その一端の任を全うすることができるとしたら意を得たこととなり、また刀剣の良書 を世に贈るという小社の出版の主意にそいえるものとして、本書の刊行にあたるものである。 『刀影摘録 神津伯押形』は古今の名作を収載して、刃文の描写が特徴をよくつかんで正 確であり、なお解説が要訣をとらえているのみでなく、戦後の刀剣書の大方が用いている 解説法の先駆をなすところに特色がある。

すでに古典書となって斯界に著名な『埋忠押形』『光山押形』『土屋押形』などの押形集 と比肩して、さらにひもといて別種の趣と格調があり、現代的な押形の描写法に親近感が ある。これまで出版されずにあった最後に残る押形集ともいえる名著がここに世におくら れることになった。

「昭和五十八年八月、加島進先生を中心に編集委員会を協会内に編成してスタートし、 編集陣の総意にもとづき基本的な編集方針を決め、各担当を分担した。本間順治先生から 押形と解説文を細部にわたり総見していただいた。国宝・重要文化財の指定品、また重要美術品に 該当する作刀の調査と注解を広井雄一氏が、索引作制を渡辺妙子氏が担当した。解説文の清書と整理は間宮光治氏が精力的にかかりきり、椿芙美香氏の助力を得た。協会学芸部内では田野 辺道宏氏を中心に檜山正則、飯田俊久、岩田隆の三氏が解説の清書を分担した。

編集整理の上でかなりの時間を要し、この間、協会事務局の江口正一局長の協力に負う ところが多く、また校正時には辻本直男先生から作刀調査などでお手数をわずらわすなど とどこうりなく進捗することができた。幸いなことに神津先生の長女である荒木宏子さん がご健在で先生の事績に詳しく、先生の出生を含め略歴を記録することができ、先生の警 咳に接する思いがある。謹んで一本を先生の霊前に捧げるものである。

「刀影摘録」の名は神津先生が命名したものであり、父上の数学の書名『筆算摘要』『珠算摘要」の名に由来すると思われる。ちなみに摘要と摘録は同義である。なお号である「保 光」の名は祖父允が用いたものと同じであり、父道太郎とともに先生が両先人から影響されるところの多かったことが察せられる。 本書の制作にあたっては、小社編集部が総力をあげてこれにあたった。 この良書が愛好家、研究家の坐右に置かれ愛読されることを心から念じつつ刊行にあた るものである。

昭和五十九年十一月吉日

刀剣春秋新聞社 代表・飯田一雄


荒木宏子 (旧姓 神津)

父の思い出

月日の流れは早いもので父の三十三回忌もすませました。このたび父の遺しました押形 集が出版されると伺い、泉下の父もさだめし喜んでおりましょう。発刊の日を楽しみにし ております。

父伯は、刀が心から好きだった人で、刀以外には趣味も楽しみもなく、晩年は戸塚の寓 辰で上に親しみ書き物をして、それも刀剣に関したことであり、一生を刀と共に過しており ましたことで、本当に幸せな人であったと思います。 「私が生まれました環境がこうした父のもとでしたから、育つ間中、刀につかっていたと いってもよいほどのものでした。ですから刀がよく斬れるとは知っておりますが、恐いと 思ったことはごさいません。父からいわれては、よく刀をもって使いに行ったこともあり ます。そうした刀を中心にした生活をしていたことになります。

いま思いますと母と一緒に遊びに出かけた記憶がありません。父が家におりますと、母 か私がおりますのは、刀のためのご来客の接待のためなのです。不在ならば、電話がきら いな人でしたから家に電話をひかせませんでしたので、おいでの方の応対でまた出られな いのです。

私もいつの間にか父の刀好きの影響を受けてしまっていたのでしょうか、性格や顔だち も父に似ていたようです。よく人様から「お父さまによく似ていらっしゃいますね」とお しゃられたものです。

一言でいいますと、父の性格は外ずらがよく內ずらが悪いものでした。みかけは温厚そ のものなのですが、かんしゃくをおこすと、母と私にあたりちらしましたけれども、有難 いことに人の親子でございますから、そのことが何であったか皆忘れております。きげん 公熱いときには、母が孫娘(いま四十五歳)をそそのかして菓子などもたせ父にまつわり つかせますと、いくぶん気がはぐれてまいりまして、やがて元にもどります。晩年は誠に好々爺でございました。 一つのことを始めますと人一倍に熱心だったことも確かです。大正六・七年ころのこと、 当時は恵比須駅の東口の方に家がありまして、私が女学校一年生ころのときです。父は刀 の写真を写すことを考え出しました。それまでは誰も刀を写真で写すといった考えはあり ませんで、七月の暑いさかりに、午後三時ごろの太陽光線がよいといって、ガラス張りの アトリエへ行っては熱心に撮影をしていました。原校ができますと自分で修整をしまして、 光ったところをみつめるので、そのために乱視になりました。そのころは茎と切先だけを 撮影していまして、昭和になり大塚工芸社で全身の写真が撮れるようになったのですが、 初めのころから知っていた私にとっては父の刀影写真は画期的なものだったという思いが いたします。

電話がきらいな人で、電話は人の都合を考えないで勝手にかかってくるから、といって 自宅には電話を入れさせませんでした。それでいて、こちらからかけるのは自由にいつで もかけられるからといって、近くの郵便局に公衆電話をかけにいっていました。

お酒はほとんどたしなまず、タバコは無類に好きで、歩きながらも喫っていました。孫たちが「おじいちゃんは浅間山みたいだ」といっていたのは、ハゲ頭の上から煙が立ちの ばっていたことからのアダ名でした。そのためだったのでしょうか、亡くなったのは咽喉癌でした。手術のあと傷からの出血多量で亡くなりました。

明治・大正の間は古刀の良いものがほとんどなく、自然と手もとにとかく新刀、新々刀が多くて、それを対象に研究を注がれたと思います。そして関東大震災があり、昭和の パニックからのち各大名家の御品が流れまして、古刀の良いものを拝見する機会ができたと思います。

大正の初めころから鎌倉と土浦に刀剣研究会があり、名古屋にも年に一回まいっており ました。本間順治先生が家にみえられたのは大正十三年と覚えております。それはそれはご 熱心なご研究ぶりで、後年の父は「自分も若かったらなあ」と述懐しておりました。その 後間もなく佐藤貫一先生がみえられました。 母と私によくあたってまいりました父は気短かで身勝手でしたが、最後までボケないでと母も私も願っておりましたが、はっきりしておりますうちに身罷りましたのが本意でごいます。母は父が逝って八ヵ月後に老衰でさんざん私の手をわずらわし父の許にまいりました。

父のことを思うと刀のことばかりしか浮かんでまいりません。まだつきぬ憶いはたえませんが、つたなき事を思い出のままつづりました。

三月十九日の夜 きげんよく笑い語りし最後をばとはの別れと知るよしもなし

三月廿日未明父の最後 もの云はぬ父のかたへに母と共にただをさな子のこと黙し見つめて

納棺の日に をしかたの紙とうちこと筆とすみをさめてとさす父の御柩


神津伯(こうづはく)先生略歴

出生と神津家

明治五年十二月六日、静岡県沼津市で道太郎の長男として生まれる。姉妹二人、弟二人 の五人兄弟である。一男一女があり、長女宏子(現荒木姓)が今年七十九歳で健在である。妻ち よは昭和二十六年十二月十六日、七十歳没。号を保光という。

祖父 允は長野県佐久市の出身、東京へ出て幕府のご家人となり、徳川慶喜に従って沼津 市に移る。伯太とも、また保光とも号す。父道太郎は数学者として知られ『筆算摘要』『珠 算摘要」を出版する。明治二十三年九月十八日、四十二歳没。母はる子は明治十九年没。

東京・渋谷区麻布、のち下渋谷に移り、大正八年に渋谷区恵比須西一―二十六—十(旧渋 谷区長谷戸二十九)に移転、没するまでここに住す。

職業
東京の築地にあった海軍の水路部に在職、昭和二年に停年退職する。海図を描く専門家 で技師となり、この間刀剣の研究をつづける。

鑑刀の師
妻ちよの家系が代々旗本で、妻の身内に刀剣に造旨の深い人がいて、手ほどきを受けた のが刀剣の道に入るきっかけとなる。のち今村長賀に師事したのが明治三十三年ころ、二十 八、九歳の時である。阿弥屋刀剣会、築地刀剣会、本阿弥琳雅刀剣会などにも参席して鑑 刀眼を磨く。

著書
大正二年五月から二年半におよび、『刀剣会誌』に「刀剣の鑑定」の論稿を連載する。こ れを集大成したのが大正十年五月刊行の『新刀鍛冶綱領』(吉川弘文館)であり、さらに昭 和六年十二月に『校訂増補・新刀鍛冶綱領』を再版する。新刀を体系づけた初の刀剣書としまた刀剣を写真撮影したものが多く含まれて注目される。 和十五年に『日本刀研究の手引』(雄山閣)を出版、古刀五ヶ伝を主眼に編集して、の の刀剣書の一つの体系基準を示している。

審查員
大正二年、中央刀剣会の審査員に、同九年には同会幹事に推される。昭和六年に制定さ れた重要美術品等保存法の委員、また国宝保存会委員を歴任する。

没年と亭年 – 昭和二十六年三月二十日、満七十九歳没。知勉院神伯森光大居士。いま富士霊園に墓部 がある。


刀装小道具銘字大系 若山猛・本間薫山序
『刀装小道具銘字大系』全三巻は、既刊の『刀装小道具講座』全八巻、『金工事典』と ともに装剣用具の鑑賞に関する百年の定説を確立したいという意欲に燃え、情熱を傾けて 編集したものである。

自序

– 『刀装小道具銘字大系』全三巻は、既刊の『刀装小道具講座』全八巻、『金工事典』と ともに装剣用具の鑑賞に関する百年の定説を確立したいという意欲に燃え、情熱を傾けて 編集したものである。

この三部作は、昭和二十六年から今日までの二十七年間に亘る永い年月をかけて、絶え ることのない努力と研究の連続が結集したものである。したがってこれらの各書は、それ 「ぞれが独自の内容を持ちながら相互に内容を補完するという密接な関連がある。

本書もまた、三千日を超える時間をかけて、豊富な資料を整備配列し、これに簡略な所 説を述べ、銘文研究の成果を大系化したものである。

鐔小道具に限らないが、工芸作家の記銘の真贋の決定や制作年代の推考は、作品全体のあらゆる条件を十分に検討し、慎重な調査と鍛えあげられた勘によって断定を下すべきも のである。したがって銘字だけを選別取材し、写真と活字によってその真偽を追求解説す ることは読者に十分な理解を与えきれないみがある。そういったことを承知の上で銘字 本を上梓するゆえんは、この部門の研究が斯界で、もっとも遅れていたからである。

近年は一・二流の工人を問わず偽銘がますます巧妙になり、これに加えて従来の偽銘の ほかに今出来の追かけ銘が横行し、その被害に泣き誤鑑になやむことが多くなった。


凡例

一、本書の各金工の取材配列は第一巻が江戸金工、第二巻が京都・後藤家・鐔工・一乗と夏雄、第三巻が諸国金工となり流派と地域別にしてある。

一、本書の解説と、刀装小道具講座の銘文・履歴・作風の記載とはお互いに補完しあっているので、併読することにより十分な理解が得られる。

一、刀装小道具講座の巻数と頁は索引しやすいよう配慮してある。例えば、→の一○○頁は、同書4巻一○○頁参照という意味である。

一、刀装小道具講座の銘文の説明と本書の解説に相違のあるものは、刀装小道具講座上梓後の調 -査による訂正記事なので、本書の所見が正当なものとして優先する。 一、工人銘および添銘は原則として解説の頭につけた。

一、解説用語はなるべく当用漢字を使用した。年齢は数え年、日本年号の下の( )内数字は西暦年号である。但し文体により数え年何歳、西暦何年と記したところもある。 

一、干支の読み方は各項に記す煩雑をさけて各巻末に一覧表としてかかげた。 一、鐘銘は表裏に分かれるものがあり、目貫はキバタや裏の切付や短冊銘がある。

一、縁や習の銘の位置を左・右、上・下と解説するのは取材の図版を見たときの位置で記している。 一、銘字や花押の特徴を強調したいときはそれらを点線で表記した上、特にその部分を実線で示した。

一、銘字の拡大の倍率は若干の違いがあり一定していない。できるだけ読めることに重点を置いた。

一、第三巻の巻末に掲載金工銘を原則として音読みに統一し、また斯界の慣用による読みも併せ て一覧表としている。


京後藤の研究 笠原光寿・秋元繁雄
内容は十五家の系図と参考資料及び各家の作品を豊富に収載し、それらを一点ずつ解説 してあって、まことに分り易い。

京後藤の研究 笠原光寿・秋元繁雄加島 進

– 後藤家は、装剣金工の宗家として栄えた家柄である。この家の作は、格式と伝統を重んじ、江戸時代には 主として将軍家や大名家の御用をつとめており、家彫の名で呼ばれている。これに対して一般の需に応じた ものは町彫と呼んでいる。後藤家には、祐乗を祖として幕末の十七代の典乗に至っている。この方の研究は 進んでいるものの、分家である脇後藤家については体系的に整理、分類がなされていない状態である。

執筆者の笠原、秋元両氏は刀装具の研究家であるが、このたび、長年に亘る脇後藤研究の成果を世に問わ れることになった。内容は十五家の系図と参考資料及び各家の作品を豊富に収載し、それらを一点ずつ解説 してあって、まことに分り易い。また、このような形で作品を眺めてみると、一つ一つが実に生き生きとし て見えてくるのが不思議である。それから、脇後藤の名称については、私自身いささか抵抗があったが、本 書が出版されるに当り、京後藤と名を改められたのは適切である。本書の出版によって、今後、京後藤の研 究と鑑賞は一段と深められ、大きく広がってゆくに相違なく、更にそれが飛躍することを願ってやまない。

(前東京国立博物館 刀剣室長刀剣研究家)監修者から一言

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