有坂与太郎氏について

有坂氏の事

古い友人を代表して 宮尾しげを

世の中に本業以外に好きな物を集めたり、行う、その気質の者を、趣味人といい、その行為を趣味と 呼んでいる。有坂与太郎さんも其の一人で、初めは川柳をたしなんだ。江戸時代から俳名又は雅号に、 おかしさ面白さを人に与えるために、この趣味の人達の中には、いろいろ考えた名を付けている。時計 商の人は今汝子(いまなんじ)北の方角に住んでいる人なので、北成(きたなり)なぞという名を考えつ けている。有坂さんの与太郎も其の口である。

与太郎というのは落語などに出てくる時は、世間の仕来たり薄く、物事の判断に遠く、少しボウとし た性質者という代名詞になっている。

正当の人がそうした名義を使うだけに、何かおかしさが有った。それを有坂さんは用いた。勿論本名 はあるが、この世界では誰もそれを聞きだすことはしない事にしている。御本人もこれが本名ですと済ましていた。有坂さんは川柳の外に狐に関するものを集める趣味があった。大正時代に趣味家の一部に 道楽宗という名のもとに集まった組があった。この仲間に入ると山号寺号というものを作り名乗った。 有坂さんはコンコン山玩狐寺与太郎と称した。狐関係の蒐集の中には郷土玩具が多くあったことから、 玩具の玩に狐を配したわけである。

 

初めは狐の玩具であったが、だんだん手を拡げて日本全国のものに及んで、そして収蔵する場所が狭 くなったので、品川の自宅の庭に長野県柳津の郷土玩具、六角塔に形どった建物を作って、そこへ納め た。昭和の初め頃までに、郷土玩具を集めて有名になったのは淡島寒月、西沢仙湖、巌谷小波、といっ た人ぐらいであったが、全国的のものを集める人は少なかった。それだけに有坂さんの蒐集は多くの人 に知られるようになった。殊に新聞社や雑誌社の正月ものの編集には干支にちなむ玩具を並べることが 流行して、暮近くになると品川の家は写真撮影者が入れ替り出はいりしていた。それ程に当時は全国的 に玩具を集めた人は少なかった。

新しい玩具以外は、古いとは云いにくいが雛人形は有坂家に相当あったそうで、いつしかそれ等を並べ眺めているうちに、雛の歴史などを調べるようになって、重量あるまとまる文献が溜ったというのでそれを一冊にまとめたのが「日本雛祭考」であった。その後に郷土玩具に関する著作も数多く執筆して いて、郷玩(郷土玩具の略)博士という名さえ世間の人はつけていた。こうした郷土玩具の普及本によって全国的に多くの愛好者がふえたものであった。昭和五十年時代に各デパートの正月には恒例のように、郷土玩具の市が催されているような盛況振りは、有坂さんの多くの著作の影響に依るものといえる。

 

太平洋戦争の為に有坂さんの品川の家の地区は、爆撃目印となるとて疎開退去命令を受けて崩

てしまった。もうその頃は互に戦争に巻きこまれて、友人知人の連絡もまともでなかったので、多くの玩具は疎開されたとは聞いたが、その後の消息は聞き得なかった。しかし「日本雛祭考」の本が復刻された事は、以前の蒐集が生き返ったということで、大へんうれしい事である。