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池大雅・与謝蕪村・十便十宜画冊等美術書お譲りいただきました

歎異抄その二十の形象喩・石川九楊・吉本隆明解説

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担当スタッフより

埼玉県戸田市にて池大雅・与謝蕪村・十便十宜画冊等美術書買取させていただきました

池大雅・与謝蕪村・国宝・十便十宜畫冊・川端康成監修
明末清初の文人李笠翁の作った十便十宜詩を大雅と蕪村が絵画化したもの

「十便十宜画冊」は、明末清初の文人 李笠翁の作った十便十宜詩を、大雅と 蕪村が絵画化したものですが、その画を正しく鑑賞するためには、李笠翁と はどういう人か、また十便十宜詩はど ういう内容のものかを知っておく必要 があります。しかし、この詩の内容を 理解するのは容易なことではなく、それを解明する試みは従来なされておりませんでした。

小社におきまして、川端康成、神田喜一郎、田中一松、米沢嘉圃四先生の御監修のもとに、日本及び中国書画の原寸大完全複製の製作を企図し、こ こにその第一回として、川端康成氏御所蔵の国宝「十便十宜画冊」を世に贈る 運びとなりました。
現在、我が国においては、各種の美術書が次々と刊行され、第一級の古書画らにして鑑賞し得ることは御存知の とおりでございます。これはまこ とに有難いことですが、しかし、書籍の形による復原にはおのずからにして制約あります。一つには、書籍の大きさからくる 約であります。通常の書籍 にあっては、その古書画の全体を原寸大で復原することはおおむね不可能であります。いきおい、原書画を縮小するか、あるいはその部分を掲載するかの他 はありません。

京都の便利堂がカラー・コロタイプの開発に着手してから十余年、その技 術が既に世界的水準に達していることは、先年、大英博物館から顧慢之「女史箴図巻」の複製製作を依嘱されたことによっても明らかであります。この技術 を最大限に活用することによって、古書画の原寸大完全複製を製作したいとい うのが我々の願いであります。

厳重な保存、管理が要求される古書画を直接に鑑賞し得る機会は、一部の専 門家を除いては容易に得られぬというのが現状でありましょう。原書画との差 異を感じさせぬ最高の出来栄えの複製は、世の多くの美術愛好者また研究者か ら翹望されているように思われます。そのような複製を作ることが我々の切な る願いであります。

大雅、蕪村の円熟の筆になる国宝「十便十宜画冊」が日本絵画史上屈指の逸品であることは、識者の夙に認めるところでありましょう。その柔軟微妙な色 「調を再現するのは至難のこととされていましたが、非常なる苦心の末、便利堂 のカラー・コロタイプ八色刷りはそれを見事に成功させ得ました。そして、用 紙、表装の特織裂地、喉から収納箱に至るまで、入念の仕立てによって、原画 冊さながらの複製を作り得たと自負しております。 御高覧の程、お願い申し上げます。

李笠谷の十便十宜詩を主題とした「十便十宜画冊」は、池大雅と與謝蕪村の連作になり、日本の南画画冊中の屈指の名作として名高い。 本笠籍の俳記、あるいはこの詩がどういう情況のもとにつくられたかは、沖田喜一郎、古原宏伸両氏の解説にまつとして、十便十宜時は李笠籍の伊園における生活が唱われており、大雅が十便を、蕪村が十宜を描いている。原詩によれば十便は、耕便、課農便、釣便、灌園便、汲便、完濯便、携便、防夜便、吟便、眺便の順に、十宜は、宜春、宜夏、宜秋、宜冬、宜聴、 配略、宜時、宜陰、雨、風の順となっている。この題によってもわかるように、十便は笠翁の日常生活にとって伊園が如何に便利であるかを、十宜は伊園における四季天候による自然の疑化が如何にすばらしいかを詠じたものである。

前者は人事、後者は自然を主題とする。この画冊は二冊に分れ、それぞれに
「池糖十便那 三洲長炭題設」 「副作星十定書那三洲長炭題哉」
と、長三洲の題があり、「十便書冊」のはじめには、朱色の統本に書いた増山雪の「聯壁 丁未夏六月三日學海平兄長洲藤賢」なる題字を掲げる。

長三州(一八三三ー九五)名は英、字は世章、通称を光太郎、三洲はその號である。豊後日田の人。幼にして神童の響れあり、また大阪に遊学、廣瀬旭荘の門に入った。尊上の志士と交わり、長州の奇兵隊に入隊したこともある。維新後新政府の高官を歴任、また書を以て名があった。

増山下(一七五四一八一九)は伊勢長島一萬二千石の藩主で、安永五年(一七七六)家督をついだ。名は正賢、字は 君選。雪、長洲をはじめ多くの號がある。多趣味な風流人で、みずからも南薫風の書をよくし、文人墨客と親しく交わった。十時梅崖を招聘して藩校を設け、また木村蒹葭堂が酒の造石高を超過して財産を没収されたさい、蒹葭堂は雪をたよ って一時長島にいたこともある。画家として知られる春木南湖はその臣で、かれの長崎遊撃は雪の命によったものである。 この「藤屋」なる題字は、尾張鳴海の下郷學海のために書した。學海については、のちに「十便十宜書冊」の成 立について述べるときにふれたい。

現在の「十便十宜書冊」の配列の順序は、沖田、古原両氏が表示されたとおり、『一家言全集』の原詩の順序と異なっている。ことにそれは「十便遺那」においてはなはだしい。


こちらは「歎異抄その二十の形象喩」・石川九楊氏のものですが、吉本隆明の別冊小冊子も付属します。正確には書道本ですね。普及版もあるのですが、こちらは限定500部の大判図版集です。この本の入荷は初めてです。この本とは全く別ですが、確か過去に吉本隆明と石川九楊の対談本も発行されていたものと記憶します。

歎異抄その二十の形象喩・石川九楊・吉本隆明解説
吉本隆明・石川九楊の書の仕事のなかで歎異鈔の書字は量も質も別格の位置を占めているとおもう

一九八二年に最初の「歎異抄」を書いた。三年ほど前から二十点何とか書き上げて、そこにどのような未だ見 ぬ「歎異抄」の劇が展開されるかを覗いてみたいと考え るようになった。

第十八作で「歎異抄」の全文を書き上げたとき、もう 大丈夫だなと感じ、最終作が思いがけない形で生まれ出 てきたとき、もうこれでひとつの仕事は終ったと思った。

いまは書作を励まし、出版を支えて下さった多くの 人々の顔を思い浮べている。(一九八九年二月 石川九楊記)

吉本隆明
石川九楊の書の仕事のなかで『歎異鈔』の書字は、量も質も別格の位置を占めているとおもう。書は何をどう 書くかにつきるとすれば、この「何を」はそのあとの過程ときりはなすことができない。そしてそのあとの過程 を内在的にきわめていくのもまた、この「何を」ときりはなせない。その意味から書にとってとおなじように、 石川九楊自身にとっても『歎異鈔』は別格のおおきな位置を占めているにちがいない。そして書家である石川九 楊は、じぶん自身の『歎異鈔』への深い関心を、書によって表現するほかに、本格的なあらわし方はありえない。 それがかれの「歎異鈔』書の二十点に結晶している。『歎異鈔』の書字については、わたしは写真で蓮如本の一部 を見ただけで、ほかに見たことはない。だからこの九楊書は、わたしには二度目の『歎異鈔』の書字だというこ とになる。石川九楊が『歎異鈔』のどの章句に惹かれているかは、書字の頻度をみれば、おおよそのところつか まえられる。

 

こちらは復原高雄曼荼羅・宮原柳僊で昭和50年発行の特大本です。限定1500部ではありますが、時々入荷することがあります。

復原高雄曼荼羅・宮原柳僊
原寸大の紫絹地に金銀描写の最も大がかりな独自の高雄本が再現したことを思えば感慨に堪えない

それにつけても画伯の熱情と共に忘れがたいのは、この曼荼羅にまつわる歴史的な数々の出来事の間に、この曼荼羅を愛 護してその修理や模写に挺身した幾人かの熱心な先人たちの存在とその業蹟とである。まず第一に思い出されるのは、弘法 大師の寂後二百年の遠忌(長元七年、一〇三四年)に当って仁和寺成就院の僧、成蓮房兼意阿闍梨がいち早くこの曼荼羅諸尊の 白描図像本を作って置いたことである。この白描本はその後兼意阿闍梨の弟子で師とともに図像研究の学僧として聞えた心覚阿闍梨がこれを伝領護持していたので、この白描本の系統は、以後長く密教の学僧達の間に転写流布されたらしい。ところが幕末に至って志摩の庫蔵寺の僧法雲阿闍梨が、両界曼荼羅の真箇の正図作製の大願を興して仁和寺に投宿し、図像の古本を博捜中、はからずもこの心覚本を発見して大いに喜び、仁和寺照道僧正の援助を得て、 京都六角堂の仏画家、宗立、 雲 道、大成の三人にこれを描かせ、明治二年(或は三年か)これを三百余図の木版刷として刊行するに至った。これがいわゆる 御室版に外ならない。なおこの外に近世における紺紙金泥描の模写本としては、知恩院に仏画師高橋一斉が文政十一年(一 八二八年)に描いた作品を蔵する由であるが未だ一見の機を得ない。

更にまた右の兼意心覚系統の白描本以外に、美術史上の記録として忘れが たいのは中世における高雄曼荼羅の修復事業と新図の作製とである。神護寺は弘法大師の寂後、時勢の推移と共に次第に寺運が傾いてほとんど廃絶の状態に立ち到ったらしく、その間にこの曼荼羅も同寺からさまよい出て前述の仁和寺を初め、蓮華王院(三十三間堂)や高野山などの宝庫に借り住まいの運命をかこつこととなった。しかし平安末葉の頃有名な文覚上人が高雄に入山するに及んで本寺の復興に立ち上り、元暦元年(一一八四年)後白河院に奏上して、この曼荼羅を神護寺に返還させることに成功した。この顛末は「文覚四十 五条」の記載によって明らかであるが、更に神護寺略記によれば、当時源頼朝夫妻に金銀泥や絵絹の寄進を受け、絵仏師法印宅間勝賀をしてこの曼荼羅を新写させたという。今この新図についてはその後の消息を尋ねがたいが、当代仏画の名手として聞えた宅間勝賀の制作の史実は、高雄曼荼羅の模写史において貴重な記録といわなければならない。しかし高雄曼荼羅 の原本の方は、右にのべた通り長い間移転を重ねて画面の損傷が甚だしくなってしまい、十四世紀の初めに後宇多院が高雄 で閲覧の折には、曼荼羅諸院の尊像の位置さえ明らかならぬ程諸所欠損し、脱落した尊像の断片は、これを拾い集めて箱の 底に納めて置くという破滅寸前の危機に迫ったので、それまで修理至難のため躊躇を重ねていた寺僧たちも、院の寝慮に応 じて衆議一決し、延慶元年(一三〇八年)修理技術に堪能な僧侶を起用して、この困難な大修復に着手し、二年がかりで漸く 完成して諸尊の金容る旧に復したという。思えばこの時もしも大修理を施さなかったとしたら、今日までの高雄本の存在は 或は不可能となったかもしれないのである。

以上、高雄曼荼羅に関するその制作の由緒や、またその作品の保存と修理、模写と復原などについて、古代以来の歴史的 な経過や変遷や画人たちの動静等々、その概要を展望したにすぎないが、これらの研究はすでに斯学の学者達によってほと んど究明されているので、精しい点に関しては故大村西崖翁の著「三本両部募荼羅集」や、東京国立文化財研究所諸氏執筆 の「高雄曼荼羅」など、諸本の参照を庶幾せざるを得ない。

ただ右にのべた高雄本の歴史的な背景を回顧しながら、今日ここに柳僊画伯の努力によって、新たに原寸大の紫絹地に金銀描写の最も大がかりな独自の高雄本が再現したことを思えば、まことに感慨に堪えない。もちろん画伯は前記の諸本等をも周到に参照したにちがいないが、終始独力を以てこれを成就した根気と熱情とは稀有のことで、この曼荼羅の信仰史上ま さに特記に価する浄業というべきであろう。ここに画伯畢生のこの大作の完成を祝して恭しく合掌する所以である。

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