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秘儀伝授・Initiate A Person,Ceremony of Esoteric Buddhism in to Secrets他 図録買取

秘儀伝授

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展覧会図録買取 秘儀伝授・Initiate A Person,Ceremony of Esoteric Buddhism in to Secrets他

秘儀伝授
「秘儀伝授」これこそ中世の学問を端的に示す言葉だと考えました。

中世の学問史上の金沢文庫といえば、一般には日本や中国の古典籍がイメージされております。 儒教教典・法制・文学・兵制・農学・医薬学など、多彩にわたるその旧蔵書は、たしかに中世の 学問の最高水準を示すものと言えます。

しかし、そうした書物を「外典」とも呼ぶように、中世の学問体系の上では決して主流の存在 でなかったことも事実です。それでは一方で「内典」と呼ばれる正統的な古典は何かと言えば、仏教の顕教・密教の経典や注釈書をさします。金沢文庫に隣接し、文庫を実質的に管理していた称名寺は、創設当初より一宗一派にとらわれない総合研究所として、中世の学僧たちによる膨大な学間的蓄積を残し、現在の神奈川県立金沢文庫に引き継がれております。 ところで中世の学問は、誰にでも公開されることを原則とする現代の学問とは異なり、限られた人脈の中で非公開の形で受け継がれてきました。仏教の学問のみならず、音楽・美術・芸能・武技・医学など、およそすべての学問的な知識は、師匠から特に許された弟子へ、厳格な秘密主 義を原則とし、文字にあらわすことさえ極力避けて、口伝えの方式で継承されてきたのです。

「秘儀伝授」これこそ中世の学問を端的に示す言葉だと考えました。日本中世のエリートたちが権威をもって密やかに伝えた知識と学問、それが何を生み出し、何を欠落させたのか。現代の 知のゆくえを考えるとき、その基層に伏流として存在する中世的な知のありかたを知ることによ って、新たな展望が開けるのではないかと思います。

神奈川県立金沢文庫 文庫長 相澤 富 治


密教の秘儀と相承

中世の日本においては、古代以来の華厳・法相などの南都六宗(顕教)と並んで天台・真言系統の密教が仏教界の主流を占め、顕密体制と呼ばれる思想的イデオロギー的な制度の基盤を形成していた。

密教は、文字通り法身の大日如来から継承された秘密の教えであり、文章による教義の研さんよりも、身体的・経験的な修行の階梯を重視する教派である。その ため師匠から弟子へ、容器から容器へ水を移すように〔写瓶]、一滴も減らさず に教的な内容を伝えることに最も力が注がれた。

しかし、一脈相承をたてまえとする密教の法儀も、師弟関係の輻輳や、社会的・ 為的な外部的製因もあって、平安時代後半からさまざまな形で分化して伝承さ れるようになった。東密においては、仁海(951~1046)の小野流、寛朝 (936~998)の広沢流の分立から始まって、鎌倉時代までに野沢(やたく) 十二流、さらには東三十六流と呼ばれる複雑な流派に分かれた。また台密においても心機一流(檀那流・恵心流)、さらには台密十三流と呼ばれる流派に分岐していた。こうした分派は、教義上では例えば台密が儀軌(密教の本尊・修法などを詳細に規定した書物)を重視し、東密が師資相承の口伝を重んじ、さらに東密の中でも、小野流は口伝を重視したのに対し、広沢流は儀軌を重視したと言われるように、宗教的内容の伝授の仕方に差異はあったが、それは大きな議論にはならず、各流派が相互に併存して自流の護持・勢力発展を競い、また密教の学僧たちは、諸流の師匠を巡歴して、複数の法脈を伝受するのが普通であった。

金沢称名寺開山の審海(1229-1304)は、東国屈指の学問寺であった 下野薬師寺において、ニ六歳より約十年の歳月をかけて、東密三宝院流の一派である頼賢( 1196-1273 )の開創した意教流を受け継いだ慈猛(1212-77)の法を受け、膨大な印可状を得ている。

金沢称名寺開山の審海(1229-1304)は、東国屈指の学問寺であった 下野薬師寺において、ニ六歳より約十年の歳月をかけて、東密三宝院流の一派である頼賢( 1196-1273 )の開創した意教流を受け継いだ慈猛(1212-77)の法を受け、膨大な印可状を得ている。さらに、勧修寺流良雅方/金剛王院流壺坂方/安祥流実厳方/三宝院流光宝方・勝円方・増〇方の諸師よりそれぞれの法を受けた。 忍性の推挙によって北条実時の帰依を受け、文永四年に称名寺に入寺して密教道場に改め、多くの門下を育てた。


こちらも図録ですが、美術系の図録になります。木工芸のたくみ・黒田辰秋、図録だけでなく黒田氏の書籍はあまり見かけません。中でもこの図録はまだ手に入れやすい方ですが、発行年度が古く(1983年)、最近は流通量も少なめです。

参考までに下記文章は本図録に収録されているものではありませんが、小林秀雄の黒田辰秋評です。「小林秀雄対談集・歴史について」より 小林秀雄が黒田辰秋の作ったお椀で飯を食っていたのは知りませんでした。うらやましいものですね(笑)

小林秀雄:それからいろいろ見せていただいていると正殿の檜の扉ね、あそこに見事な大きな螺鈿の引き出があるでしょう。作者を聞いたら、京都の黒田辰秋さんだと言う。やっぱりそうかと思ったんです。黒田君ならよく知っている。現に僕は黒田君の作ったお椀で飯を食っています。それは大した名人ですよ、あの人は。だけどあの欲のない地道な生活をしている黒田君の名前は宮殿とか宮内庁とかにどうしても結びつかなかったんだ、私の頭ではね。最初引き出を見た時に、まさか黒田君の仕事がこんなところにあるとは思わないから、誰の仕事かと聞いたわけなんです 。小林秀雄と高尾亮一の対談・新宮殿と日本文化より

木工芸のたくみ・黒田辰秋
黒田辰秋の六十余年に及ぶ創作活動の展開を主要な作例130余点によって回顧するもの

昭和45年,黒田辰秋(明治37年-昭和57年)は木工芸家では初めての 者に認定された、木工芸の匠の美を見事に表現した作家である。
塗師の家に育った彼は青年期になると、従来の分業による工程が作品。 みにくいことを感じ,素地づくりから仕上げまで一貫して行なう新しい木 になった。この彼の意思は,工芸の近代化を唱える富本憲吉や,柳宗悦,河出 芸運動に触発されるところが大きかったと思われる。
こうして作られた彼の作品の,素材に逆うことなく、堅固でおおらかな作品 注目を集めるところとなった。とくにそれまでの調度には見られない個性的 覚は,同時代の知識人たちに愛好され,多くの支持を受けた。以後晩年にいた 請に応えつつ新たな創作を試みることで、木工作家としてのキャリアをさらに重ねていったのである。

今回の展観は、黒田辰秋の60余年におよぶ創作活動の展開を,主要な作例130余点によって回顧するものである。この機会が,彼の工芸表現のより深い理解に役立つととる 木工芸の発展に新たな示唆を与えることを望んでやまない。
本展開催にあたって御協力を賜った御遺族をはじめ,各御所蔵家,ならびに関係者の方々 に対して厚く御礼申しあげる次第である。
東京国立近代美術館長
安達健二 日本經濟新聞社社長


こちらは内国勧業博覧会・明治美術の幕開け、第一回から第五回までの内国勧業博覧会出品作をフィーチャーしています。内国勧業博覧会のみを通覧した図録は見かけません。各回の概要も併せて記されています。

内国勧業博覧会・明治美術の幕開け
明治という時代の息吹が込められた内国勧業博覧会の出品作から,当時の美術の特色に触れていただくとともに,皇室と博覧会との関わりについても注目していただく機会となれば幸いです。


記念すべき第一回内国博は、初代内務卿大久保利通の提案により、 内務省の主導で開催された。博覧会開催の意義は、明治政府として 初めて参加した一八七三年のウィーン万博によって、関係者のあい だで認識されていた。会場には、幕末に上野戦争の舞台となり、焼 け野原となった徳川将軍家の菩提寺、寛永寺周辺の土地が選ばれた。 半年前には西南戦争が起り、開催を危ぶむ声もあったが、予定通り実施されることとなった。しかし、多くの人々にとって博覧会とは いったい何であるのかが理解されていなかったため、出品物の収集 には各府県で出品取扱人による勧誘が行われた。全国から収集された出品物は、前年に開催されたフィラデルフィア万博の出品区分に ならい、全六区に分類され展示された。西洋的な美術概念がまだ普 及していなかったこの段階では、その区分の枠組みの範囲で、当時 の人々が美術であると考えたさまざまな造形物が出品されることと なった。また、出品者は他者と比較され優劣をつけられるという経 験をつうじて、内国博が競争の場であることを認識する機会となっ た。第一回内国博はそれまでの古器旧物中心の展覧会のあり方とは明確に切りはなされ、国民に殖産興業を啓発することを目的とした一大事業であった。

 

会期 : 明治十年(一八七七)八月二十一日~十一月三十日 会場:東京・上野公園 敷地面積 :二九、八○七坪 入場者数 : 四五四、一六八人 出品人数:一六、一七四人 出品点数 :一四、四五五点 経費 : 一二三、四一〇円


大盛況であった第一回内国博の終了後まもなく、博覧会が殖産興業 政策として有効であることを認識した内務卿大久保利通の提案によ り、内国博は五年ごとの開催とし、第二回は明治十四年に開催される こととなった。しかし、十一年に大久保が凶刃に倒れ、西南戦争後の インフレーションや貿易不均衡による正貨流出など、深刻な不況に見 舞われるなかで第二回内国博は行われた。第二回内国博はともに勧業 政策を進める内務省と大蔵省の所管となった。

第一回と同じく、この時代には美術と産業の発展がまだ矛盾なく同居していた。博覧会にたずさわる明治政府の人々の考えでは、日本固有の高尚な美術をめざす ことは、すなわち海外への輸出需要が伸びることを意味した。そのた めに利用できるのであれば、西洋の新しい技術、新しい機械の導入も 積極的に推奨された。また一方では、のちに『温知図録』としてまとめられる、明治九年のフィラデルフィア万博以来つづけられていた政府による図案指導によって、海外の趣味にあわせた日本らしさをまとっ た工芸作品も製作された。ジョサイア・コンドルによって設計された 美術館は、博覧会場の中央に位置し、第三区「美術」はその一階に展示された。美術館前には、三メートルはあろうかという宮川香山の巨大 な陶製錦手人物噴水がすえられ、過剰な演出で観客を出迎えた。

会期 : 明治十四年(一八八一)三月一日~六月三十日 会場:東京・上野公園 敷地面積 : 四三、三○○坪| 入場者数 : 八二二、三九五人 出品人数 :三一、二三九人 出品点数 :八五、三六六点 経費 :二七六、三五〇円


第三回内国博は既定通り五年ごとの開催であれば明治十八年に開かれ るはずであったが、国家財政の逼迫を受けて開催が延期されることにな り、代わりに輸出の主力製品を中心とした繭糸織物陶漆器共進会が実施 された。この共進会をふくめ、第二回内国博終了後の博覧会事業は農商 務省の所管となっていた。明治初期から博覧会行政に関与してきた佐野 常民は、第三回内国博の規模を拡大しアジア博覧会とすることを提唱し たが、財政難による大蔵大臣松方正義らの反対により実現はしなかった。

しかし、第三回内国博は、輸出先の販路拡張が要望にあがり、事前に諸外国へ招待状が発送されたほか、政府が外国から購入した物品を展示 る参考館が設けられるなど、三度目にして初めて国際性を意識した博覧 会となった。また第二回に比べ出品点数が飛躍的に増加したため、審 査基準が細分化され、受賞は厳しさを増した。第二部美術のなかでは、前二回では不分明であった出品区分が、絵画、彫刻、美術工業とわけられ、 以降の四、五回ともこの区分がつづいてゆくことになる。この年は、政治の 分野では第一回総選挙、帝国議会の開設、大日本帝国憲法の施行、教育勅語の発布があり、美術の分野でも帝室技芸員制度が設立されるなど、 近代国家としての体制ができあがろうとしていた。明治二十一年に竣工 した明治宮殿の室内装飾として、開催時期の近い第三回内国博の出品作 が比較的多く購入されているのも特徴である。

会期 明治二十三年(一八九〇)四月一日~七月三十一日 会場: 東京・上野公園 敷地面積 : 四○、○○○坪 入場者数 :一、○二三、六九三人 出品人数 : 七七、四三二人 出品点数 : 一六七、○六六点 経費 : 五六六、五○○円


第四回内国博は初めて東京以外の地で開催されることとなった。 大阪や東京との誘致合戦をへて平安遷都千百年紀念祭の一環とし て決定された。この決定を受けて、東京遷都以来、活気を失いつつあった京都は、交通網の整備、衛生環境の改善、平安神宮の創建や東本願寺太子堂の落成、そのほかの社寺等の修繕による観光都市への志向など、さまざまな面で近代化が進められた。誘致の際の宣伝文句に使われたように、美術工芸は京都の代表的な伝統産業であり、染織品を中心に数多くの工芸品が出品された。

しかし、輸送の困難や観覧自粛など、日清戦争の直接的な影響を蒙ったため、全体の出 品数は第一部工業以外すべての分野で第三回よりも下回り、売却数 も思いのほか伸びなかった。ただし、補助金の廃止等により不要出 品物が排除されたことで、出品作全体の水準が上がり、受賞率は前 回よりも高くなった。内国博のあり方が、それまでの輸出目的の殖 産興業中心から、都市の復興や観光化へと変化した。博覧会には間 に合わなかったが、同年十月には帝国京都博物館(現在の京都国立博物館)が竣工した。

会期 : 明治二十八年(一八九五)四月一日~七月三十一日 会場:京都・岡崎公園 敷地面積 : 五○、五五八坪 入場者数 :一、一三六、六九五人 出品人数 :七三、七八一人 出品点数 :一六九、○九八点 | 経費 : 四四三、三○三円


第五回内国博は前回の京都につづき、関西圏の大阪で開催される こととなった。第五回はすべての点でそれまでの内国博の規模を変 駕する博覧会となり、その性格にも大きな変化がみられた。まず、 日清戦争の勝利によって万国博開催国の仲間入りをはたす機運が高 まったが、費用面の懸念から参考館にとどめることになった。第五 回の参考館はそれまでとは異なり、不平等条約の改正、工業所有権を保護するパリ条約への加盟により、外国からの自由な出品、販売 が可能になった。さらに、台湾総督府による台湾館の設置や、娯楽 性の高い余興の実施など、商業先進地である大阪らしいアイデアが 随所に盛りこまれた。その結果、第五回内国博は当初の殖産興業路 線とはあきらかに違う方向へ進化することとなった。

美術に関しても、それまでとは一転して厳しい評価を受けた一九〇〇年のパリ万 博を経て、西洋の厳格な美術概念を受容せざるをえなくなり、第一回から比べると格段に整理された絵画と彫塑を主として、精選された美術工芸を残すのが精一杯の状況となった。時代はこの後、美術と工芸のすみわけが進められる。

会期 : 明治三十六年(一九〇三)三月一日~七月三十一日 会場:大阪・天王寺今宮 敷地面積 :一一四、〇一七坪 入場者数:五、三○五、二〇九人 出品人数:一三〇、四一六人 出品点数 : 二七六、七一九点 経費 :一、○九三、九七三円


こちらはオーソドックスに絵画の図録になりますが、細密版画をテーマにしたものは珍しくあまり見かけませんので紹介させていただきます。線の迷宮・細密版画の魅力

線の迷宮・細密版画の魅力

ごあいさつ
線の迷宮・細密版画の魅力を開催いたします。 目黒区美術館はこれまで、現代版画作家による版画集やシリーズ的な作品をささやかながら収集してきました。当館の収蔵品については、年に1度テー マを設定してご紹介していますが、版画をまとまったかたちで展示する機会は 決して充分とはいえない状況にありました。

今回の企画では、当館がコレクションしてきた版画の中から、銅版画や木版画 (木口木版画)において、特に“線のもつ力”や“線の美しさ”、“線の 叙情性”、を共通項とする作家作品をとりあげ、さらにその範囲を拡げて、収 蔵作家以外の作家の方々からもご出品いただき、白と黒の線で成り立つ独 特な細密表現をご紹介し、版画世界の魅力に迫ります。

ところで、版画表現の現代史については、発表する場の変化、写真やCG など映像メディアの進化などにより、版そのものの意味が拡大化・多様化し ていることがこれまで多く語られてきました。現在では、より急速に変容してい るテクノロジーやデジタル化の波を受けて、新しい方法論を展開する作家が 多く出現し、そうした中で積極的に版をとらえ、拡大化・多様化とは違う文脈 で考えてゆこうとする動きもあるようです。

こうした状況があるその一方で、地道で集中力を必要とする細密な版画表 現の仕事は、現在の版画の流れとは次元を異にして、その表現価値が認め られているといえます。時間と精神力が支配する細密版画の世界は、厳しい 自己のコントロールの上に成り立ち、緊張感が漂う揺るぎない存在感があり ます。今回の展示では、木口木版、銅版画におけるエングレーヴィング、エッ チングを主な手段とする10作家、約100点の作品を構成いたしました。自ら の命を版に刻んできた、または刻んでいる作家たちの細密表現について、 “視ること”にこだわり、来館者の方々がゆっくり鑑賞できるような工夫のあ る展示を試みます。さらに、出品作家によるワークショップや、こどもたちのた めのプログラムも、展示と並行して数多く開催いたします。

最後になりましたが、本企画に快くご出品くださった作家、所蔵家、美術館 の皆様、本企画の構成にあたり、懇切丁寧にご教示ご協力を賜った方々、 当館のワークショップ活動を支えてくださっている大変多くの方々、そして毎 年、継続的なご協賛とご支援をいただいているコダック株式会社とその皆様 に心よりお礼申し上げます。


ところで小口木版画って?

木口木版画(こぐちもくはんが): 一般的に知られている板目木版画と、使用する木が異なります。春や黄楊などの、木の年輪が均質 に詰んだ堅い木を横に切って(木口という)、その面を丁寧に磨き上げて、彫りたいイメージを、 銅版のエングレーヴィングと同じような彫刻刀、ビュラン(木口木版画用)で彫ってゆきます。

細 かい表現が可能です。この技法は、18世紀後末にイギリスで始められたもので、フランスなどで 主に挿絵本の世界において発展しました。銅版のエングレーヴィングに対して、ウッド・エングル ーヴィングと呼ばれます。日本には印刷技法の一つとして明治時代にもたらされました。

銅版画のエングレーヴィングは、鋭く彫られた溝にインクが入って紙に転写されるので、線は黒く表現され ますが、木口木版画の場合では、彫った線以外のところにインクがつきますから、彫り込まれた線は白く表現されます。

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