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御物集成・東山御物・柳営御物等各種美術書買取させていただきました。

御物集成・東山御物・柳営御物・2分冊

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担当スタッフより

埼玉県志木市より御物集成・東山御物・柳営御物等各種美術書買取させていただきました。いくつか気になったものを紹介させていただきます。

まずは御物集成・東山御物・柳営御物御物集成・東山御物・柳営御物・2分冊

御物集成・東山御物・柳営御物・2分冊
御物集成とはその歴史用語であるところの将軍御物の中の絵画と工芸品が中心である

漢魏以降の文献によると、中国では天子の用に供する品物を「御物」と称していた。日本の平安時 代前後に天皇蔵品を御物と呼んでいるのも、その中国用語の模倣なのであろう。かの「東大寺献物帳も、聖武天皇御物を癒遮那仏に献ずる目録という意味であるにちがいない。ところが、足利尊氏が政権を握り征夷大将軍に任ぜられて、落府を開くとともに、その足利将軍家の所蔵物をも御物と敬称するようになったばかりか、その将軍家御物は数量ともに天皇御物よりも上であったがために、室町時代中期以後における御物なる用語は、将軍御物が主体であるかのごとくに使われている。この伝統は 江戸時代に下ってち受けつがれたばかりか、むしろ徳川将軍家御物だけを指すようにっ変わってきて、足利家将軍家御物は東山御物と特称するようになって、天皇御物を御物という場合は一般的にはひじょう に少なくなってきた。

しかし明治維新以後は、かつての平安時代前後のように、御物とは天皇御用の品を指すところの本来の意味に復元して現代に至っており、同時に歴代将軍御物は歴史用語に化してしまったのである。 ここに編集する『御物集成』とは、その歴史用語であるところの将軍御物の中の絵画と工芸品が中心であることをことわっておきたい。将軍御物中の書跡その他の作品や,本集で撮影不可能であった絵画や天皇御物などは、改めて続集として刊行で考えことを期待している。


こちらは平安朝服飾百科辞典、巻頭には図版が収録されていますが、基本点には辞典で文章メインの本になります。出版は昭和50年ですが、いまだに研究者に活用されている本です。

平安朝服飾百科辞典
平安時代の服飾関係語彙5000項目を、当時の文学作品・古記録・古辞書にわたる広範な資料より抽出、詳述した大辞典。国語国文学・家政被服学・日本史学・民族学・の研究に必備の書

「天下に比類のない美しく気高い男君を源氏物語の作者は「源氏の君」といふ代りに「光る君」と呼び、それに 劣らない女君を「輝く日の宮」と言った事は周知の通りです。いづれも太陽の光明に通ずる美的呼称であり、 「白金宮」「薫る大将」は花の香に通はせ、膚の滑らかさ、清らさ、にはふめでたさ、ふくよかな肉付き、豊かに 艶やかな髪のゆらぎ、この上ないかうした美の一つ一つが男君女君の天与の発露であることを当時の女流作家は 感得して表現しました。

ところで世界に独特な引目鉤鼻の描写法を創始したのは平安朝の画師でした。目鼻立ちを捉へて個性的表現をこの簡略な一般的様式に固定したのは一応個性美の否定だとも思はれます。しかし画師が目鼻立ちに重きを置いて服飾頭髪を副へものと見る様式を採らなかったのは、生きた人物を包む服飾やそれを取巻く調度住居、さては 季節の風物が醸し出す光と影、形と色、にほひとひびき等人工美の極致を目指してゐたためかも知れません。言ひかへれば、これが平安朝文化人の要請であり、女流作家のねらひであったのでせう。 – 東帯衣冠、愛唐衣の礼装から、褻の直衣、往姿が容姿容貌とどういふかねあひになつてゐたか、かさね(重・ 襲)の色目と言はれる表着(上衣)とその下の衣、さては五つのかさねから十五領に及ぶ色の配合から生まれた 新しい調和、四季を通じて暁と夕映、刻々に移り変る大空、その陰影から来る限りなく微妙な豊かな花の色々、 それら自然美の分析と綜合による把握が如何に果されたかは好箇の課題となるでせう。

「梅がさね」が面(表着) は白、裏(下着)は蘇芳、「卯の花がさね」が面は白、裏は青と各二色の生み出す新たな効果の名称を更に織物に 移して縦糸の蘇芳色、横糸の白を織りまぜた衣は「桜」と呼ばれてゐます。

平安朝貴族の耽美主義がここまで徹してみたことを充分弁へた上で、服飾の美的表現を作品に絵画に探らなく てはならないと思ひ立った私どもは、この神秘な密林に踏み迷ひ途方に暮れながらも、あかね会の共同作業として十年にわたる苦難に堪へた末、漸く微光を見出して、ここに晴がましくも平安朝服飾百科辞典の名において世 にまみえ、識者の公平にして厳正な批判を求め得る機会に恵まれました。

このお正月、桑原武夫氏は「人文科学の共同研究組織を指導し諸科学の発展に尽した功績」で朝日賞を受けた 所感を紙上に次のやうに述べてみました。「当初(二十数年前)個室がなくて用務員部屋でストーブを囲んで知的会話を楽しんだ」のだが、今は若い人も個室の研究室を持つてゐる。「だが相互批判や知的啓発のない密室の思考を学問と錯覚するやうになるとこれはもう不幸」だ。「勉強と研究、理論収集家と理論家を混同してはいかんといふ自省をこめてわれわれの共同研究はスタートした。」その間共同研究に必要な個人の能力を引き出すことが出来て、個人尊重と共同作業の両立、その協調が科学文化の発展に多大の成果を挙げ得たといふのです。恰も その共同研究が京都で華々しく発足した頃、このあかね会は東京でひそやかに弧々の声をあげたのでした。

当時私どもの敬愛する国文学者又歌人でもある故関みさをさんが、岡崎義恵博士のお勧めもあったところから 女性の文学研究会設立を提言されたので、河野は関さんと母校を初め各女子大を歴訪して昭和二十六年第一回の 文学研花あかね会を円地文子さんのお宅で催しました。会の名は額田王の、

あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る

といふ歌に因んだものです。 出席者は赤木志津子、青山なを、阿部俊子、青木生子、円地文子、大井ミノブ、柴田初子、津田節子、関みさ を、関根慶子、河野多麻の十一名でした。その翌二十七年には、野上弥生子女史、湯浅芳子女史が入会せられ後 無の私どもを激励してくださいました。

以来、各自の研究発表や講演以外に共同研究会が行はれその一つが今日の服飾研究に到る基盤になりました。 かうして昭和三十五年に十周年を迎へるころには会員は発会当時の七倍七十六名に達しました。

四十年の暮にはあかね会は第百三回を数へて満十五歳を迎へましたが、この久しい年月の間、会を支へて される。 これこれにも受化を時期に臨み、専門化された諸学会は女性を歓迎する情勢になりました。そこで和四十一年の春、第百四回の総会で、今後は各グループで共同研究を続けることとし、例会は中止になりました。

この時字津保物語の研究を続けてみたグループが中古文学専門であったところから、「平安時代の服飾研究」を 共同作業にということに決定し、この仕事が出発いたしました。はじめは資料収集・本文選択・立項基準・引用 形式等の打合せなどの会合が頻繁で合意に到る道程は決して平坦とはいへませんでした。従って不備な点も少な からずありますので、私どもは今後生涯をかけて是正する覚悟であることを誓ひたいと思ひます。

しかし従来よりも稍々進んだ点を挙げるならば、採取した資料の多いこと、仮名書の資料のみならず漢文書の記録類を加へたこと、立項も表現語彙や図柄にまで拡げたこと、解説に新見も若干加へられてみること、図版も 出来るだけ古い確かな典拠に基づいたこと等で、それなりに工夫し努力精進いたしました。

古来我国の文芸作品、殊に物語や和歌の領域には世界に誇ることの出来る才媛が輩出しましたが、科学的学究 的方面では、明治の開化を俟っても女性の進出は寧ろ稀であり、況して女性のみの共同作業はあり得ない事でした。その間に処して曲りなりにもその成果を挙げ得たことはささやかな誇として許されるでせう。

動初より つくり いとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打っ

(「草の夢」与謝野晶子)

と豪語した晶子女史の羨しいまでの自信には遠く及ばないまでも。

最後に、本書の出版は全く講談社の御厚意の賜物であって、私どもあかね会一同は感謝の念を以て深く銘記したいと思ひます。
昭和五十年五月二十六日
河野多麻


こちらは旧儀式図画帖にみる宮廷の年中行事

旧儀式図画帖にみる宮廷の年中行事
江戸時代末期の宮廷行事が生き生きと描かれておりカラーフィルムの記録映像を眺めている気分になります

宮廷の年中行事と『旧儀式図画帖』

宮廷で行なわれる儀式や行事は恒例行事(ゴウレイと濁ります)と臨時行事とに分けられます。 恒例行事とは毎年行なわれる年中行事です。臨時 行事とは、天皇が即位されるとか、皇后を立てら れるとか、皇太子が元服なさるとか、その都度行 なわれる宮廷行事です。これらの儀式や行事は、 時代によって恒例行事となったり、臨時行事とな ったり、その内容にも変化があったりして、なか なか一通りには說明しにくいのですが、本書では 東京国立博物館が所蔵する『旧儀式図画帖』に基づいて江戸時代末期の宮廷の年中行事をたどります。

古代中国では、朝日が昇るとともに、天命を受 けた天子が宮殿に昇って南面して、その宮殿の前 の広場に廷臣たちが整列しました。このように朝 日が照らす前庭において、天子を頂点とする身分 秩序の理念を表現したものが朝廷でした。天子が 南面するのは、天の中心にある北極星に見立てて いるのです。とりわけ一年の元となる日の元日に、 天子の前に廷臣たちが整列して祝賀の言葉を申し 上げる儀式を朝賀といい、最も重要な朝廷の儀式 とされていました。

日本の宮廷は、中国の宮廷をモデルとして、前 後の空間から構成されていました。前方は朝堂院 とよばれる国家の公的空間であり、その正殿が大 極殿です。後方は内裏とよばれる天皇の私的空間 であり、その正殿が紫宸殿です。日本でも、元日 の朝に天皇が大極殿に設置された高御座に着座されて、大極殿の前庭に整列した群臣から祝賀を受 けられる朝賀が行なわれたのをはじめ、一年の節 目節目の日には節会という宴会が催されていました。

日本の宮廷行事に中国伝来のものが多いのは当 然でしたが、平安時代を通じて日本なりの宮廷の あり方が出てくると、季節に応じた趣向を凝らし たり、民間の風習を採り入れたりして、日本人の 生活感に馴染んだ儀式行事が発達しました。こう いった宮廷の和様化はさまざまな面に現われ、宮 廷行事を行なう宮殿についても、瓦屋根・朱柱・ 白壁・基壇などから構成される大陸風の大極殿を はじめとする朝堂院の宮殿から、檜皮屋根・素木 柱・高床などから構成される日本古来の素朴な建 物の流れをくむ寝殿造の紫宸殿や清涼殿といった 内裏の宮殿へと空間が移りました。内裏という言葉は、宮廷をさすものとなっていますが、本来は 「内」であり「裏」である天皇の私的空間において 宮廷行事が行なわれることとなったのです。朝廷 の本質ともいうべき正月元日の朝賀さえも途絶え て、内裏の清涼殿の東庭において上層の廷臣たち だけが参賀する小朝拝とよばれる小規模な儀式に なりました。これでは朝廷という理念を実現する 場がなくなるのですが、それでも宮廷は朝廷と見 なされました。このように内裏を中心とする宮廷 行事が発達したことが、日本の宮廷文化の内容を 雅趣に富んだものにしたと、私は考えています。 ところが、宮廷に侍っていた侍たちが武力をもつ武者となり、幕府という武家政権が開かれるよ うになると、宮廷は権勢を失い、かずかずの宮廷行事が廃れました。とりわけ応仁の乱(一四六七~ 七七)が公家たちに与えたトラウマは深く、のちの ちまで宮廷では乱前・乱後という言葉で語られま した。そして宮廷人は乱前の宮廷の思い出のなか に、自らの階層的独自性(アイデンティティー)を 追い求めるようになったのでした。

やがて長い間にわたって続いた争乱が落ち着くと、大名や幕府の協力のもとに、失われた宮廷文 化が再興されるようになります。こういったなか で、紫宸殿を大極殿代とみなしたり、また御常御 殿というものができました。すなわち大極殿は焼 失したのち再建されないままになっていたのです が、内裏の正殿を代用したのです。また、天皇が 日常を過ごされる宮殿としては清涼殿がありましたが、もはや寝殿造の宮殿は実生活を過ごすには 不便になってしまったために、近世的な暮らしに ふさわしい床・棚などを備え付けた畳敷きの書院 造の宮殿が建てられて、清涼殿は儀式用の宮殿と なったのでした。

こうして宮廷は紫宸殿を中心と する表向(御表)と、御常御殿を中心とする奥向 (御内儀)とに分けられ、宮廷行事も表向行事と奥 向行事に区別されました。 「表向行事としては、元日・白馬・踏歌・豊明の 四節会が行なわれ、正月の四方拝・摂家や親王家 の参賀・左義長・鶴包丁・歌会始、二月の春日 祭・釈奠・楽始、三月の闘鶏、四月の春から夏へ の更衣・賀茂祭、七月の中元御礼、八月の石清水祭、九月の伊勢例幣使の発遣、十月の秋から冬へ の更衣、十一月の新嘗祭、十二月の御神楽など、 行事名だけを見ていても想像がふくらみます。

奥向行事としては、正月に千秋万歳や猿回を見 たり、五月に宮殿の屋根に菖蒲を葺いたり、六月 に茅輪をくぐったり、七月に燈籠を並べたり、八 月に月を眺めたり、九月に菊に綿を被せたり、十 月に玄猪餅を食べたり、十二月に煤払という大掃 除をするなど、行事名に馴染みがあるだけに興味 がわいてきます。 

「東京国立博物館が所蔵する『旧儀式図画帖』は 江戸時代末期の宮廷で行なわれていた儀式や行事 を本文と附図によって記録したもので、全四十八 帖にも及びます。この図画帖は、明治三十年(一八 九七)に皇后(昭憲皇太后) の命を受けて、かつて 六位蔵人として宮廷に勤務していた藤島助順が光格・仁孝・孝明の三天皇の宮廷において行なわれ た恒例・臨時の儀式行事の記録として作成したも のです。その附図については、絵画表現が粗かっ たり、考証に問題が見受けられるにもかかわらず、 宮廷行事や宮廷空間の実態を活写する点において は優れたところがあり、まるでカラーフィルムで 撮影されたドキュメント映像のような臨場感があります。

この図画帖が作成されたのは明治維新を 迎えて三十余年後でもあれば、すでに宮廷は東京 に遷って平安宮は京都御所となり、多くの宮廷行 事は途絶えてしまっていました。そのため、実用 的な儀式書というよりも過ぎ去った日々を偲ぶ回 想録として作成されたものと思われます。

 

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