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宮廷装束に見る源氏物語の四季

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担当スタッフより

宮廷装束に見る源氏物語の四季展等など各種図録買取。
今回もいくつか興味深い図録などを紹介させていただきます。まずは宮廷装束に見る源氏物語の四季展、宮廷装束に焦点をあてた本は図録以外でも少ないのですが、さらに図録となりますとあまり見当たりません。数年前であれば入手もそれなりに容易だったのですが。最近は見かけることが少なくなってきたように思います。序文は
高円宮憲仁親王が書かれています。

宮廷装束に見る源氏物語の四季
教養に満ちた平安の〈雅〉の世界を、装束・模型などによって再現するのみならず、そこから現代にまで受け継がれてきた日本の文化、日本の精神の本流を探ろうとするのが、本展覧会の趣旨であると思います。

爽やかな新春にふさわしい、「宮廷装束にみる 『源氏物語』の世界展」の開催をお喜び申し上げます。 ここのところ、「源氏物語』が静かなブームになっているようです。何人もの作家による現代語訳本をは じめ、歌舞伎やオペラ、モダンダンスなどでも取り上げられています。『源氏物語』は世界最古の女流文学 であるばかりでなく、その内容においても千年後の現在まで、国內はもとより世界中の人々に親しまれる だけの、人間の本質にせまるものを備えています。

千年以上もの昔、宮廷の女性たちは高い教養を身につけ、中国から輸入された漢字を使った万葉仮名と いうテクニックを使いこなすだけでなく、男どもが漢字漢文に固執している間に、漢字の草書体から大和 言葉に適応する〈ひらがな〉という新しい文字体系を作り上げてしまいました。このようなことは世界の歴 史を見回してもまったく類のないことだと私は思っています。十二単の襟元の重ね色目の色彩的感覚の見 事き、そして色目ごとに付けられた名前の優美さにも、平安女性の優れた感性が現れています。

このような教養に満ちた平安の〈雅〉の世界を、装束・模型などによって再現するのみならず、そこから 現代にまで受け継がれてきた日本の文化、日本の精神の本流を探ろうとするのが、本展覧会の趣旨である と思います。

多くの皆様がこの展覧会をご覧になり、現代の日本が次第に失いつつある〈心の豊かさ〉をあらためて思い起こしてくださることを期待しております。

高円宮憲仁親王


明けましておめでとうございます。 新たなる千年紀の幕開けとなった昨年は、若宮さまのご生誕というまことにおめでたいことでしめくく られ、千年紀二年目の春を迎えました。

しかしまた昨年は、世界をゆるがす大事件の起こった年でもありました。その余波はいまだに国際社会のおおきなうねりとして残っています。前世紀の課題を乗り越えて、これからの千年を人類がどのように生きてゆくのか、西欧近代とは異なる発想の文化に学ぶことが国際社会の流れとなりつつあります。そこ て私たちも、今後千年のいしずえを確かめる意味で、日本のこれまでの千年をふりかえってみようと思いました。

千年前の文化をかいま見ることができるのが『源氏物語』です。ここには、人が誕生してからその一生終えるまでのうちに経験する、晴れや日常のさまざまなことが見られます。子どもの誕生をことほぎ、 健やかな成長をともによろこび、四季折々の自然の恵みで生活を彩りながら、人々は日々を送っていました。そのもっとも奥深いところに流れている感情は、千年後の今も私たちに深い共感を呼び起こします。 いつの世も人は生まれ、新しい人を生み、交替してゆきます。世界の平和といっても、それは一人一人 の人間の生きかた・考えかたの積み重ねでもありましょう。千年の日本の文化は、自然を愛しまた敬い、 周囲の人々と力を合わせて生きることで伝えられてきました。この伝統を見つめ直すことは、新しい時代 にも変らないはずの人間本来のやさしさを思う希望をもたらしてくれるようにも思われます。 時をこえて目に見えるかたちで再現された『源氏物語』の世界を、どうぞお楽しみください。 平成十四年元旦


こちらは打って変わって長宗我部元親の図録です長宗我部元親・盛親の栄光と挫折

長宗我部元親・盛親の栄光と挫折
中世から近世への移行期に土佐の近世化という難題に挑んだ二人の国主、二つの政権の苦悩を具現化できたならば幸いです。

ごあいさつ
 土佐の近世は新国主山内氏の入国とともに始まると考えられています。

しかし、長宗我部氏政権末期(文禄・慶長期)には、すでに近世的とも考え られる政治・社会的現象が現れていました。

本展では、豊臣秀吉に降伏後、元親・盛親(元親四男)親子が目指した新しい土佐の形を、総国検地、新田開発、国内法整備(「元親百箇条」)といった具体的な施策から考察してみました。さらに山内氏入国直前の緊迫した土佐国内の状況についても、現存する各種の通達文書などを用いて描くことにより、新国主入国以前に一応の成果が上がっていた施策、引き続き懸案事項として残 された施策に大別して概観してみました。

また、元親の領国経営・政権交替構想に重大な影響を及ぼしたと考えられる嫡男信親の戦死(天正十四年、豊後戸次川の合戦)の顛末についても、島津・大友・仙石氏の資料を一堂に集め、多角的な視点に基づいて展示致します。

本展の開催により、中世から近世への移行期に土佐の近世化という難題に挑んだ二人の国主、二つの政権の苦悩を具現化できたならば幸いです。

最後になりましたが、本展示会にご理解を賜り、貴重な資料をご出品くださいました関係各位に心より御礼申し上げます。
平成十三年十月十九日
高知県立歴史民俗資料館 館長 坂本 正夫


(1)はじめに
峻険な四国山地を背に負う土佐の歴史諸段階にあって、海上の道が有する重要性は言うまでもないが、中世の状況については、僅かに文安二年(一四四五)兵庫北関入船朝飯により、東土佐諸港~兵庫間の材木船往反を下瞥見し得るに過ぎず、殆ど不明と言う他はない。周知の如く、応仁の乱以降の対明貿易 で、導部人と結ぶ細川氏が、瀬戸内・北九州を制する大内氏への対抗策として、 門領国(和泉、淡路・阿波・土佐)経由のいわゆる南海路を利用、これを機 として幕府船の通航も認められるが、その重要拠点が土佐一条氏支配の幡多郡であったこと以外、航路・寄港地など具体相は不詳である。

ところで、六世紀半ば正規対明貿易が途絶し、いわゆる後期倭寇が狙城を極 める段階に入ると、その対策に腐心した明側は、背景となる倭情を知るため情 報を収集し、また探索の使臣を派遣、やがて中国における日本研究書が相次い で成立するのである。その中でも鄭舜功『日本一鑑』 の倭寇を中心とした日明 関係および日本事情(地理・風俗・言語など)に関する陳述は、我国の歴史・ 地理,国語諸学界で注目され、史資料として活用されてきたが、同書は、問題の一佐を中心とした南海路の実態解明についても有効な史料であったのである。 実は江関な話であるが、その土佐関係部分は、一九三七年十二月、那波利貞 「日本一鑑と土佐」(土佐史談日)により、早くから土佐史界に紹介されていた のである。それは同年八月、徳島毎日新聞・香川毎日に連載された「日本 一鑑 と阿波」に着目した田所眉山の要請により、土佐関係部分を抄出・改題したも ので、素描ながら紀伊・豊後両水道間の航路・諸港に検討を加えた仕事であっ た。しかるにその後の対明貿易・南海路研究にあって同論文は看過・無視され、近年の整備された「土佐史談目録』(一九九六年)に於いてすら、主要項目索引から洩れているのが現状である。これへ『日本一鑑』 の豊後水道域地名に詳細な 考証を試みた神戸輝夫「十六世紀豊後水道交通の一端—漢籍史料よりみたるー」(1980)、を加えた二点が先行業績で、いずれも三部一六巻からなる同書の内、〇梅図経巻之三,天使紀程を中心に論じている。

選者鄭舜功は広東省新安郡の人で、浙江総督楊宣より日本探索の命を受け、 ※嘉靖三四年(弘治元、一五五五)四月広東から台湾・沖縄を経て豊後に到着、 大友義鎮(宗麟)より「大明国客」の処遇の下、日杵海蔵寺の塔頭竜宝庵に滞 在、園情の観察,情報収集に努めると共に、従事官二人を京へ送り、倭寇禁圧 を幕府に求めさせた。翌年帰国するが、政情の変化と通交を求める大友の使僧 を第同せるため四川省に流される。嘉靖年末、不遇の中で撰述したのが「日本一鑑」である。彼と同時期、浙江巡撫胡宗憲派遣の蒋州も博多を経て豊後に来るが、大内亡び毛利・島津の指頭いまだしのこの段階、大友は西国最強の大名 であり、当主または対外政策に積極的な故であろう。


(二)土佐沿岸の南海路瞥見

〇海図経巻之三・天使紀程は、江南から琉球・薩南の島々を経て九州南岸に達 した明朝使臣が京都に至るべき水陸の経路を、次の如く三大別して述べている。 (1)夷海有道(山川~九州東岸~豊後水道~土佐沿岸~紀伊水道~堺) (2) 夷海上道(坊津~九州西岸~関門海峡~瀬戸内山陽沿岸~兵庫) (3) 夷島陸道(坊津~九州西部~山陽道)

ここでの水路たる (1)・(2)が、それぞれ広義の南海路・中国海路に 当することは云うまでもなく、前者が「入唐道」(同巻之二・倉海津鏡)とう。 された古代以来の基幹航路 = 後者と対置されているのは注目すべきで、 遣明船廃絶以降、戦国・織豊期南海路の果たした役割については、更めて問い直す必要を要請する。以下、夷海石道すなわち南海路につきみるが、内浦(大隅)・油津(日向)など九州東岸はすでに研究蓄積があるので割愛、狭義の南海路すなわち豊後水道以東の土佐沿岸を取り上げたい。次表は、神戸・那波両氏の 地名比定を基本的に踏襲、後から土佐を経て堺に至る航路上の諸港および主要な通過点の概要を摘記したものである。

まず豊後水道横断の九州測渡海地とされたのは、日向の細島と豊後南端の浦江である。前者には、「本島水程餐行四百八十里、渡至浦戸」と中土佐の要港浦への里程(中国里)が記されているが、ここから足摺岬への直行ではなく、 浦江コースと同じく宿毛湾口の島々を目指したものと思われる。大船にとって、 浦江が、内曲用小舟」と条件に恵まれないのに比べ、東九州屈指の良港細鳥は、 風待ち、潮待ちの外、補給基地としてすぐれており、大名伊東・大友関係も良 好であった。蒲江から宿毛湾口の鵜来島・沖ノ島をあて可泊地柏島に至るコー スは、次に良港小間目(古満目)も控え、豊後水道横断の南海路幹線であるが、 また、浦江は、北航して豊予海峡から瀬戸内へ入り、夷海上道と合する航路の 分岐点でもあったのである。そこにみられる中国海路と南海路の比較・得失は、興味深いものがある。

 本夷云、其都水程、自豊後次豊前、渡長門入山城、約凡十日、於路有関、可泊、一自豊後渡土佐入山城、凡十二日、於路無関、船多野泊、陸自豊後渡長 門至山城、凡二十五日、路甚間関、 

天正地検帳に「唐人名」・「唐船」の地名が残り、畿内巡察の帰途、南 により豊後に至るヴァリニャーノが立ち寄った形跡もある土佐西端の要衝宿毛が出ないのは不思議だが、蒙島の項に「若或陸路往中村、必由港内、取道西小 路而人中村、中村陸路入其都、可道東小路之椿泊」とあれば、その上陸地は湾 頭の宿毛であろう。公家大名一条家の居所中村へは、風浪酷しい足摺航路を避けたのである。ところでこの時期、頻繁な往来を必要とした大友の府内と一条 の中村とを結ぶ海路としては、南海路は南に偏し過ぎ、神戸氏が同期中国地理 書たる鄭若曽「籌海図編」(嘉靖四一年、永禄五)により指摘された佐加関(佐賀関)から土佐に至る航路が相当するものと思われる。豊予海峡を扼する佐賀関は府内にも近く、そこより東南に「海面一百八十里」航すれば土佐に至るとあれば、宿毛へ入港出来よう。この航路上の良港深浦が、南海路で沖ノ島・柏 島間に位置するのは不自然な迂回であるが、避難港および両航路の中継港とみ れば、説明はつく。

土佐沿岸に関する「日本一鑑』の記述で最大の疑問は、津龍(ツノタツ)に ある。大使紀程では、足摺岬~与津崎間の位置から中村に近い四万十川河口 (例えば下田・木ノ津)と見做したいところであるが、地名挙証なく、「津龍端 護符」との素っ気ない紹介も気になる。照応するはずの地図(倉海津鏡)に至っては、一つのが、与津崎~須崎間に描かれているのである。数次にわたり遺明船が寄港・長期停泊した中村御所膝下の拠点港、堺商人・本願寺が関 りした唐船建造地につき、本史料は語るところがない。東西土佐間の断崖海岸 に孤立する小浦与津(崎)を挙げたのはさすがで、同書の信憑性を高めるもの であるが、「港無人地」は事実に反する。同地には、松浦党とも豊後よりの来住 とも云われる海賊・海商的性格を有する渡辺一族が盤居、弘治三年(一五五七) 鉄炮の軍功により、一向宗禁数を原則とする一条家は、当主にこれを免許して いるのである。土佐の一向宗が、堺真宗寺を中心に南海路沿いに教線を伸長さ せた点は先稿の如くであり、与津を含め表出した沖ノ島・深浦・柏島・小間 日・浦戸・手結は、近世を通じ真宗卓越地帯であった。

須崎については、与津崎に続けて「次一百八十里、経洲崎麗、乃司牧東小路 所轄地方、外港可避東北風、内港可避西南風」とあり、その後段で、風除け良 好な外港(野見湾)・内港(須崎湾)を備えた土佐屈指の良港たることを強調、下村〇氏が明らかにした下賀茂社領津野荘々頭の港町須崎の発展、ここを拠点とした伊勢御師・堺商人の活動を支えた自然的・基礎的条件が、奈辺にあった かを裏付けている。司牧・小路と中国風表現を用いた前段は、戦国期土佐の特 異な政治状況を窺わす証言と思われ、注目をひく。地方長官の謂たる司牧は、 薩摩・豊後・周防など諸国にみられ、具体的には、肥前の「平戸司牧」(松浦氏) を除き、島津・大友(義鎮)・大内(同舎弟義長)ら守護大名のことである。 「土佐地方」と表記される土佐国は、西の沖ノ島から東の椿泊までの地域をさし、 その司牧は「中村蜍慕為土佐司牧所居」とあれば、中村御所とも云われた土佐 一条家、当主は若年・在国ながら、破格の官位(従三位・左近衛少将)を帯す る四代兼定である。このように同家が、守護大名と比肩し「土佐司牧」とされ るのは、いわゆる三国司に入るか否やは別として、割拠争覇渦中にある諸国人 を超越、何らかの一国支配的権能を有する存在と見做されていた証左と思われ る。他方、東・西を冠する小路は、土佐横断の陸行部分にみえ、都への上りでは、先引の如く、宿毛~中村間で「西小路」、東端で「東小路之椿泊」が出現。 下りでは、讃岐(阿波の誤り)から「取道土佐東小路之至西小路」とある。 れら用例から、小路が土佐国内を東西に二分する地理的区割たることは、 であるが、更に中国風表現たる「路」の本来的語義が投影しているとすれに これを行政八割とみることも可能であろう。解釈に苦しむ前段は、次の如く読 み取れるのではなかろうか。与津崎から海路一八〇里で須崎に到着する(次は浦戸)。この須崎を通って(陸路)東小路に入ると、一条家が直接支配する地域
に行くことが出来る、と。一方では東土佐の軍事的制圧を企図しながらも、二 大行政区割を基礎として一国支配権を行使する、これが本史料からする公家大 名一条のイメージであるが、その史実を裏付けることは、今、不能である。

土佐中央部に占位し、高知平野を後背地とする浦戸は、『土佐日記』、「廻船大 法奧書」、サン・フェリッペ号漂着などよく知られた港で、永正一七年(一五二 ○)遣明船(細川船)寄港の形跡あり。天正五年(一五七七)薩摩から南海路 をとり帰洛する近衛前久も同地に逗留、元親の歓待をうけている。この時兵庫 まで警固したのは旧細川水軍系の池氏であり、浦戸はその根拠地であった。「港 小町停」とは狭義の浦戸港を指す。石清水八幡宮領夜須荘の津口であった手結は、野中兼山の築港により有名であるが、その関係文書に「手結には古ハ湊有 之由候、近来埋只今ハ片灘二成」とみえる古手結港の実在が、本史料により裏 付けられたのである。

「一日戸路、土佐地方、可停、次一百八十里至室三崎」とある東津留 (トノツ ロ)については、那波氏の唐ノ浜(安芸郡安田町)說があるが、唐船連想に基 付く憶測にすぎず、さりとて地名からする代替案もない。ただ室戸岬までの海 上里程一八○里が、与津崎~須崎間のそれと同一であることに着目、岬を起点 として地図におとすと奈半利川河口に達する。奈半利は、紀貫之乗船が二泊し た「なわのとまり」であり、文安二年材木・榑を積んだ「なわり(直利)」船籍 船一○艘が兵庫北関へ入港するなど、手結~室戸岬間の寄港地としては、最も 相応しい条件を具備している。ただ地名の問題が解決されない以上、後考を俟 つ外ない。湾口の葛島をはさむ東西水路を京口・土佐口と称する如く、甲浦は古来土佐東端の要港で、応仁二年(一四六八)堺から幡多荘へ向う前関白教房 座乗の「大船」もこの「神浦」に停泊している。文安二年兵庫北関入船の土佐 材木船四一艘の内、その過半二六艘は同港船籍船で、その大小船(三○○~七 ○石)の年間を通じての畿内往反は、これに次ぐ奈半利以下諸港(佐喜浜・安田・前ノ浜)に卓越している。同地は浅間荘と呼ばれているが(天正地検帳)、 不詳である。


こちらは土器の図録です。今回はバラエティに富んでいます。右撚り・左撚り・縄文の土器文様と紐の撚り 土器の図録は多種多様でおおくのものが発行されていますが、中でも撚りをテーマにしたものは見かけたことがありません。

右撚り・左撚り・縄文の土器文様と紐の撚り

今年は、「撚り」をテーマにした企画展を計画してみました。書類を整理するには紙 いった紙縒りが活躍し、縄綯い作業は稲藁に縒りを加えてつくります。また、「腕に走りをかける」とか、「縒りを戻す」と言うように、「撚り」や「縒り」は生活にとけ込んだことばのひとつでありました。

このたびの企画展は縄文土器を調べる方法のひとつである、縄の燃り方に焦点を当 ててみました。

縄文時代の土器をはじめ、今日では使われなくなった荷縄やモッコな どの、藁製品、それに現代の縄、紐、ロープ類を展示しました。ご覧いただければ一目 瞭然ですが、燃りの種類の多さという観点から見れば、縄文時代に軍配が上がります。 縄文土器は表面に縄目文様がついているのが名前の由来で、その数は百種類以上と言 われており、現代社会では見ることのできない複雑な撚りの縄もあります。ですから 縄目文様を詳しく分析することで遺跡の年代を特定することができるわけです。

また、 出土した土器の表面についている縄目文様の復元も試みました。みなさまも挑戦なさってみてはいかがでしょうか。

最後になりましたが、資料の貸し出しや写真撮影などを快くご承諾いただきました 関係機関のみなさまには心より感謝申し上げますとともに、この企画展が地域活性化 の一助になれば幸いであります。
平成15年9月
長井市長目黒栄樹

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