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雅楽・宮内庁等美術書買取させていただきました。

雅楽・宮内庁

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担当スタッフより

埼玉県川口市より雅楽・宮内庁等美術書買取させていただきました。

「日本の伝統芸能の理解と鑑賞並びに記録保存のために、わが国において、古来より伝わる優れた芸術としての宮廷舞楽などのすべてを、初めてオールカラーで再現、鑑賞できればとの意図で刊行したものです。」

雅楽・宮内庁
古来より伝わる優れた芸術としての宮廷舞楽の全てをはじめてオールカラーで再現


安達健二・井上靖・入江相政・高橋誠一郎・坂東三津五郎推薦文

作家
日本人の根源的なものに
井上 靖
今日に伝えられる雅楽に対して、私たちは二つのことを為さなければならぬ。一つはその正しい鑑賞である。 宮廷音楽として比類なき堅固な箱の中に仕舞われてあるものは、単に優れた音楽としてばかりでなく、日本およ び日本人の根源的なものを考える上に、たいへん貴重なものであろう。しかも、それは殆ど害われぬ形で取り出 すことができる。雅楽に対して為さなければならぬもう一つのことは、言うまでもなくその保存である。この一 点から考えても、創思社のこんどの充分な用意のもとに為される「雅楽」出版の意義は極めて大きいと思う。


護られた宮廷舞楽
入江相政侍従長
戦争がすんであまり間のない頃のこと、ピアニストのコルトー氏が、皇居で雅楽を聞いて「地球上にまだ なものが遺っていたのか」と讃歎した。大陸から、半島から、伝わって以来千何百年、皇室がなみなみなら 護を加えられた甲斐があったというもの。うちのめされた気持でいたあの時、このことのために、心にとれ 自信がよみがえったか三十年近く経った今日になっても、忘れることのできない思い出である。


高い古典芸術を現代に一
文部省・文化庁長官
安達健二
雅楽はわが国最古の伝統を有する古典的音楽であり、舞踊であって、世界の現存音楽中、その歴史が古く、若 術的にきわめて高度のものとされている。このため、文化庁では雅楽を重要無形文化財に指定し、その伝統を現 代に伝える宮内庁式部職楽部の方々を保持者に認定している。

しかし、このように歴史上、芸術上価値の高い雅楽や国立劇場における公演や文化庁の行なう公開の場合以外 は、一般の人々が観賞できる機会に乏しいのが現状である。このようなとき、「日本の芸能」、「文楽」、「能・ 狂言」、「郷土芸能」などの無形文化財関係の良書の刊行を続けてきた出版社が、このたび「雅楽」を出され、主 「要な舞楽、楽器、面、装束のカラー写真に懇切な解説を付した好著をえて、雅楽のすがたを広く国民に知ってい ただくことができるのはまことに意義深く、喜びにたえない次第である。


編集を終えて
京の夜空の星が今智も変りなく輝くように、一二○○ 年前中国、朝鮮から渡来し、その後歴史のきびしい敷居 をまたいで、現存しつづけてきた雅楽そのものの片鱗で もうかがい知ることができたら、という希いではじめたものである。

その後このような本の編纂につきものの、さまざまな 曲折を経ながらも、漸く陽の目をみることができたの は、偏えにこれに携った人たちの情熱と共に、この一里 塚の本を現代(世界)の若い人たちに少しでも解っても らい、更にこれを基として研究を深め、発見し、補い、 明日の音楽、舞踊、装束などを期待し、徐々にその本来 の美しい音色のきけるものになる一助にでもなれば、と いう想いに外ならない。そしてそのことは、雅楽がもつ振、音、面、装束、舞 具などに充分見ることができよう。

最後に宮内庁楽部の辻楽長はじめ、この本のためにわ ざわざ特別新写を快よく承諾し、演出して下さった方 々、そして写真家の林嘉吉、陽一の両氏、並にお忙しい にも拘らず 御執筆くださった 谷川徹三、岸辺成雄、榎 本由喜雄、蒲生美津子の諸先生方、加えて題字を引受けて下さった町春草先生、またこのような本の制作に当っ て、常にその技術を傾ける装本、製版、印刷、製本に携った各氏の努力に深く感謝します。


こちらも雅楽の本になります。雅楽・伝統とその意匠美ですが、図録ですので、出版年度は新しいものの(2005年)こちらの方が上記に紹介した本よりは手に入れにくいはずです。

雅楽・伝統とその意匠美
今回の展覧会では,宮廷の人々に学芸の嗜みとして親しまれ,伝授されてきた楽器や楽譜類をはじめ,絵画や工芸作品に表された様々な意匠,そして雅楽の舞に用いられる装束の華麗な意匠を紹介します。

皇室の長い文化の伝統に深く関わり,今日まで伝えられてきたものの一つに雅楽があります。現在も式部職楽部では,古来からの雅楽の伝統を継承し続け,宮中行事の折に演じられるほか,春と秋には演奏会が一般にも公開されています。

雅楽は,いにしえの時代に成立した折の趣を,音楽と舞によって伝えるもので,神秘的であり,雅で華麗でもあり,また滑稽さもある表現は,観る者を異なった時空へ誘い,多くの人々を魅了してきました。そして,美術作品に対する影響も大きく,多彩な意匠を生み出しました。

今回の展覧会では,宮廷の人々に学芸の嗜みとして親しまれ,伝授されてきた楽器や楽譜類をはじめ,絵画や工芸作品に表された様々な意匠,そして雅楽の舞に用いられる装束の華麗な意匠を紹介します。

雅楽には多くの楽曲がありますが,それは大陸起源のもの,日本で成立したと言われるもの等,様々です。奈良時代に大陸より伝わった伎楽や散楽に,わが国の歌謡や今様などが結び付きながら,次第に優雅なものとなりましたが,そうした成立やその伝承には,宮廷や有力社寺も関わり,朝廷の儀式や寺院の法会などの際には無くてはならないものともなりました。そのため,その用具として作られる楽器や装束類などは,材を選って,美しいものであることが通例となります。いわば,その時々の優れた技術で制作され続けてきたものです。

そうした伝統とその中で育まれた意匠の展開について,平安から鎌倉時代の貴重な楽譜・楽書類や絵画,そして近世以降の絵画や工芸品と共に,今日の雅楽装束を通して,わが国が誇るべき一つの伝統文化に触れ,あらためて日本文化を伝えていくことの大切さを感じていただければ幸いです。


宮内庁には、式部職楽部というセクションがあ る。ここでは、千年以上もの長きに及んで存続し 続けてきた〈雅楽〉という楽舞の伝統をさらに継 承していくため、日々、その修練に励み、宮中行 事の際やその他の機会に演奏活動を行っている。 わが国が誇る伝統文化―雅楽は、国の重要無形 文化財に指定され、ここで演奏活動する楽師も また、重要無形文化財保持者に認定されている。

こうした特殊な職種が宮内庁に存在するのは、 五世紀以降に大陸から伝来した楽舞や、国内で 行われていた歌舞が、宮廷で行われる楽舞に採 り入れられて次第に組織化され、大宝元年(七〇一) に治部省の中に雅楽寮が設けられて以後、組織 の変遷を重ねながらも、宮廷行事と深く関わって存続し続けたことが最大の理由であろう。その 雅楽は、わが国の音楽や舞そのものの継承はも ちろんであるが、使用される道具類や関係する 品々―つまり楽器や楽譜・楽書類、装束、さらに は絵画や工芸作品に至る幅広い分野にわたって、 制作技術や様々な意匠に多大な影響を及ぼして、 文化の芸術性を高めた。

今回の展覧会では、今なお楽舞を保持し継承し続ける楽部、貴重な楽譜や楽書類を保管する 書陵部、そしてその華麗な楽舞を視覚的に美的 に表現した絵画や工芸・彫刻、楽器を保管する 当館といった、それぞれ異なった立場で〈雅楽〉に関する品々を保管するセクションの作品を会して、その華麗な様子と共に、伝統の保持と継承 の様子を紹介する。

一、雅楽とは、

「雅楽」という言葉は、本来、中国で生まれた 概念で、「雅」は上品で正しいを意味し、優雅な正 式の音楽をいう。日本の雅楽は、奈良時代に雅 楽で扱った音楽と、その後に改作された 作されたもので、宮廷や社寺で行われ 指す。音楽だけの場合は管絃、舞を伴うものを 舞楽と称する。大きく三種類のものがあり、一つは大陸系・朝鮮半島系の楽舞、つまり古代中国 や朝鮮半島から渡来した中国系の唐楽や朝鮮半 島系の高麗楽で、音楽と共に舞われる。二つめは国風歌舞、つまりわが国の古楽に由来する神楽歌、東遊などで、歌と共に舞われる舞であ る。三つめは 歌物と呼ばれ、渡来の楽器によって伴奏される声楽曲で催馬楽、朗詠などである。

通常、演奏会などで舞楽として舞われるのは、 音楽だけで舞われる大陸系のものである。主に 唐楽で舞われるものを「左舞(左方舞)」とし、装束 は赤が基調となる。高麗楽で舞われるものは「右 舞(石方舞)」で、装束は緑(青)が基調となる。

また、左舞・右舞に関係なく、共通しての分類 では「ご舞・志 舞」、また舞振りの様子で「平舞・武舞に分けられ、子どもの舞う童舞もある。

これらは概ね、文舞は舞人が四人か六人で、 装束か蛮絵装束を着け、緩やかに舞うもの、武 舞は舞人が四人、武具を持って舞う舞である。平 舞は文舞とほぼ同様で、走舞は一人で持物をも って舞い、その舞だけの装束別様装束という)を着け、 面を被って活発に舞うものである。ただ、舞によ っては例外的なものもあり、各々についてはP92~P96にそれぞれの由来等も含めた一覧表を掲載しているので、そちらを参照されたい。

二、歴史の概略

わが国において、大陸より音楽が伝来する以 前にすでに祭祀等に関わって音楽が奏されてい たことは、弥生時代の遺跡からのコト類の発見や、 沖の島に奉納された神宝に五弦琴が存在してい ること等により明確であろう。これらコトの形 状は、和琴に受け継がれ、今日も神楽や国風舞 などの際に用いられている。

楽舞についての最古の記録は、五世紀半ば、 恭天皇の崩御に際して、新羅から種々の楽人が 渡来したことが『日本書紀』に記されている。さらに同書は、欽明天皇十五年(五五四)二月には新 羅から楽人四名が来朝したこと、推古天皇二十 年には百済の味摩之が「伎楽の舞」を伝え、さら に百済・新羅・高句麗の三国の楽舞「三国楽」が 天武天皇十二年(六八三)正月に飛鳥浄御原宮で演 奏されたと記す。また唐楽については、大宝二年 (七〇三)に「五常太平楽」が奏されたことが『続日本紀』に記されている。

こうした楽舞の渡来は奈良時代に入っても続 き、天平八年(七三六)には林邑僧・仏哲らによって 林邑楽(林邑はベトナム辺りの国)が伝えられ、度羅楽 (度羅国の位置は不明)、渤海楽(渤海は中国東北部沿海州地 方にあったといわれる)も伝わった。これらは、宮廷の儀式や行事、社寺の神事や法会などの際に奏され、場をより一層華やか演出していたのである。

そして大宝元年、雅楽寮が設けられ、種々の楽 舞が整えられて、体制的に受け継いでいくこと になる。二官八省の中の治部省のもとに設けら れた「うたまひのつかさ」は、日本古来の歌舞を 担当する歌師四人、歌人四十人、歌女百人、舞師 四人など、計二百六十四人、外来の楽舞を担当 する唐楽師十二人にその楽生六十人、高麗楽師 四人にその楽生二十人など、計百四十七人。こ れに官人なども加えると、実に四百五十人以上、 五百人にも達するほど、大規模なものであった。 当時、いかに雅楽が重要な位置にあったかを窺い知ることが出来よう。

こうして定着していった楽舞は、天平勝宝四年 (七五二)四月九日、聖武太上天皇をはじめ、光明 皇太后、孝謙天皇が行幸して行われた、東大寺 盧遮那仏(大仏)の開眼供養会において、集大成と もいえる最大規模の演奏が行われた。その様子 については『東大寺要録』に詳しく、正倉院には、 当時、用いられた楽器や楽装束が伝わり、その 華やかさを彷彿とさせてくれる。 平安時代に入っても唐楽の輸入は続く。桓武 天皇の時には和な部嶋継が「蘇合香」を、また承 和五年(八三八)に遣唐使として唐に渡った藤原貞敏(八○七~六七)が琵琶の秘曲を伝えた。貞敏は、 「琵琶の名手・廉承武について「流泉」「啄木」「楊真操」の秘曲を学び、楽譜数十巻と琵琶二面-玄上と青山-を伝え、帰国後の承和六年十月一日、 仁明天皇と群臣の前で琵琶を奏した。

ところで、仁明天皇の承和年間(八三四~四八)を 中心する前後には、楽の改作や新作が盛んに行 われ、大戸清上、和な部大田麿、尾張浜主らが活 躍している。特に清上は、その作曲数が最も多く、 笛の名手でもあった。また浜主は、承和十二年正 月、大極殿において、百十三歳という高齢で少年 のように軽快に「長寿楽」を舞い、その舞姿を観衆は賞賛したという。この時期は楽舞の一つの隆 盛期であり、和風化が進む重要な時期と捉える ことが出来る。 「平安時代も中期になると、宮廷の行事が整備 され、それに伴って、四季折々に雅楽は演奏され るようになった。朝観 行幸、御賀、相撲 節会、 寺院建立の際の供養会、御八講など、頻繁とも 言えるほどである。また宮廷の人々とって、「詩 歌管絃」は必須の教養として浸透し、雅楽そのも のに高貴な人々が深く関わることとなり、その性格はまさに宮廷芸能となる。この様相は、現在 に至る雅楽装束が、公家装束の影響を強く受け ていることにも色濃く表れている。

この時期が、雅楽の歴史にとって重要なのは、 一つは楽舞の左右二分化が行われ、もう一つは 器楽を合奏する管絃が成立したことにある。楽 舞は、中国系の楽舞を左方、朝鮮半島系の楽舞を右方とする左右両部制が成立した。これには 左右の近衛府の官人が楽舞に携わることになっ たことが関係している。

また、宮廷の人々に必須の教養として「詩歌管絃」が定着する中で、管絃が育まれ、御遊が行わ れた。御遊は宮中や院御所などで、天皇・上皇や 公卿らが集い、それぞれに得意な楽器演奏した ものである。笙や篳篥、横笛、琵琶、箏などの楽 器によって、宮中の行事や、花などの季節美の観賞の際などに、盛んに行われた。こうした中、管絃に堪能な人物は、後世に及ぶまでその名が伝えられている。例えば、清和天皇の第四皇子・貞 保親王は、当代随一の管絃の名手で、延喜二十 一年(九二二)には、醍醐天皇の勅命を受けて、最初 の勅撰楽譜『新撰横笛譜』を編纂した。また醍醐天皇の孫にあたる源博雅は、『今昔物語』や『古今 著聞集』にその管絃の才能に関する説話が多く収 録され、康保三年(九六六)には村上天皇の勅命に より『新撰楽譜を編纂した。貞保親王と博雅は、後に重視される楽の相承について大きな役割も果たしている。

管絃と共に成熟していったのが宮廷歌謡である。これには催馬楽、風俗、朗詠があった。催馬 楽は、わが国諸国の民謡が宮廷に取り入れられ て編曲された歌曲である。すでに奈良時代末から普及していたと考えられるが、十世紀頃に整 理され、譜の作成などが行われた。『源氏物語』や 『枕草子』等の文学作品には、催馬楽が歌われる 場面や、歌詞の引用が多く見られ、宮廷社会に 深く定着していることが知られる。風俗は『枕草 子』『土佐日記』に記述が見え、宮廷社会に好まれ たものであるが、今日には伝わっていない。朗詠は漢文による歌謡である。漢詩・管絃・和歌の三 船の才を称された藤原公任が撰した『和漢朗詠集』は、宮廷の人々が愛唱していた和漢の詩文か ら、朗詠するのに相応しいものを選び、分類編集 したもので、宮廷歌謡としての盛行を示している。

ところで、近衛府の官人が雅楽を奏する様になって、十世紀頃には雅楽の相承は、その中心が 内裏に置かれた楽所へと移行した。初めは臨時的に置かれていたものが次第に常設となり、さ らに南都や天王寺でも神事や法会の際には必ず 奏楽することから、楽所が成立した。楽所に補 任された楽人は、次第にその世襲化が進み、狛 氏、多氏、豊原氏、安倍氏、大神氏などの楽家が形成され、現在に及ぶまで雅楽の相承を担うことになった。 

宮廷芸能として平安時代に大成された雅楽であるが、中世以降に台頭した武家もまたこれを 嗜みとして学び、擁護した。平清盛は、安芸の厳 島神社に舞楽をもたらし、源頼朝は鶴岡八幡宮に楽所を設置した。また足利尊氏、基氏、義満は 「鳳笙師伝相承』に名を連ね、大寺院での舞楽法 要を盛大に催している。そして応仁の乱で壊滅 的な状況となった京の雅楽が息を吹き返したの

は、正親町天皇によって天正年間(一五七三~九二)に 天王寺の楽人五名を、また後陽成天皇によって文 禄年間(一五九二~九六)に南都の楽人三名を、京都 の楽人に補強したことで、新たに京、南都、天王 寺の三方の楽人が合同で宮廷儀式の際に奏楽を 行う三方楽所の伝統が創られた。そして豊臣秀 吉は四天王寺再興に助力し、また聚楽第に後陽 成天皇を招いた際には舞楽を整えるために多額の金額を投じた。さらに徳川氏は、三方楽所の 経済的安定を図ると共に、家康が祀られた日光 輪王寺の祭祀や祭礼等にあたらせるため、江戸 城紅葉山に楽所を設けた。

そして江戸時代には、鎌倉時代に興福寺舞 人・狛近真によって著された『教訓抄』(天保元年〈一二三三頃)、また京の楽家の豊原統秋が著した『体源抄』(永正九年(一五一二成立)といった伝承を子孫に 伝えるための楽書をはじめとする様々な文献資料をもとに、雅楽についての研究が体系的、総合的に行われるようになった。安倍季尚による全 五十巻にも及ぶ『楽家録』は初めての総合的楽書 とも言えるもので、この後には岡昌名が『新撰楽 道類聚大全』全三十巻を著した他、熊沢蕃山、新井白石、荻生徠らの学者も雅楽研究に関与している。

近世期のこうした状況の中、諸大名の中には 雅楽を愛好した大名も少なくなかった。よく知られるのが彦根藩第十二代藩主・井伊直亮と、紀 州藩第十代藩主・徳川治宝である。また、中世、 応仁の乱の影響によって、宮廷における儀式や行 事と密接に関わる国風歌舞は中絶を余儀なくさ れたが、古譜を基にするなどにより江戸時代に 復興され、これが現行の歌舞に伝えられている。

明治になって、明治天皇が江戸城を新しい皇居 として移られたことに伴って、東京で奏楽を行うセクションとして、太政官の中に雅楽局が設置された。この雅楽局が、その後に変遷を重ねて、現在の宮内庁式部職楽部へと繋がっている。雅楽局 設置に従って、それまで、京、南都、天王寺の三 方楽所と、紅葉山楽所に所属していた楽人は、一 箇所に集結することとなった。そのため、各楽所 で行われていた曲目、奏法、流儀などを統一する 必要が生じ、明治三年(一八七O)と同二十年に曲目の選定、同九年と二十一年には新たに規範とすべき楽譜集が編纂された。これが『明治選定譜』と呼ばれるもので、現在、楽部が伝承しているも のはこれに基づいている。また神楽、催馬楽、朗 詠なども雅楽局に委ねられ、伝承されている。 雅楽局はそれまでの楽所とは異なって一般の人にも楽師となる門戸が開かれ、また洋楽をも あわせて演奏することとなり、今日までこの制 度は変わることなく続いている。しかし、楽師の 人数は次第に縮小され、現在の定員はわずか二 十六人である。

今日、楽部の活動は、皇室に関わる諸行事の 奏楽以外に、皇居内においての春秋二回の公演、 国立劇場などでの公演を通しての普及活動をはじめ、雅楽の演奏活動を行っている民間団体等へ の指導なども行い、わが国が誇る伝統文化―雅 楽の継承に務めている。

三、意匠美の展開

宮廷の儀式や行事、社寺の神事や法会と密接 に結び付いて発展した雅楽において、その諸用具 ―装束や楽器等の意匠は、それが整備され、発展した王朝文化最盛期の様相を基本的に継承していった。

いわゆる芸能に用いられる諸用具は、雅楽に限らず、華やかであることが大きな特色である。 雅楽が整備される以前に、社寺の法会を荘厳す る為に行われていた伎楽は、正倉院宝物に遺るその関連宝物からも、その華麗な様子が窺える。装束は大陸の影響を強く受けた唐花文など の色彩豊かな錦をはじめとして、綾、羅、絶を用 いて構成され、面や楽器も鮮やかな色彩、文様が 施されていた。

早い時期の雅楽装束は、「古楽図(信西古楽図)」(展示NO30)の描写によって、その形式を知ることが出 来る。この図は、雅楽や散楽の様子、演奏される 種々の楽器を描いたものである。散楽は唐楽の一つとして渡来したもので、曲芸的・奇術的なも の、滑稽技のようなものを指す。正倉院宝物の 墨絵弾弓(中倉一六九)には、当時の散楽の様子が描 かれているが、これらと「信西古楽図」の描写に は近似性が認められる。そして、「信西古楽図」に 描かれる楽器や装束の古様さからも、この古楽 図は平安前期頃の様子を伝えるものと考えられ ている。この図に描かれる雅楽装束には、詳細に文様等は描かれていないものの、裾を長く引く装束が一番上かあるいは表着の下に着用されてい ること、毛縁の〇〇面や甲、持物などに現行装束との共通性が認められる。こうした装束に、こ の後、公家装束の形が融合して現行装束の形へと 整っていったと考えられよう。文様については、 公家装束の影響を受けたため有職文様の吸収も 行われ、常装束の袍に刺繍で表される〇文や、下襲の桐竹文を中にあしらう菱文とその周囲の 花文、毛縁補福に大きな丸文様を施すことなど は、平安後期に装束の形式が整っていった時点で 取り入れられて整ったものであろうことが、古い 遺例や絵画作品の描写から知ることが出来る。 しかし、錦や唐織の文様は比較的自由で、むしろ、 『玉葉』などの記述に見られる様に、唐物の流入にも影響されて、金銀摺箔の装飾、鮮やかな錦 や金襴、銀蘭等の豪華な織物を用いている。室町 時代の遺品を見ても、むしろ織や文様には時代 的な特色が表れた織物を組み合わせて装束が制 作されている場合が多い。中世までは、文様については、一定の原則はあったであろうが、比較的 自由であったと考えられる。そして、四天王寺や 輪王寺の舞楽装束や絵画作品から見ても、文様 が現行に近いものとなったのは近世で、応仁の乱 で衰退した雅楽が、復興された際に制作された 装束の文様が以後の規範となったと見られる。 一方で、雅楽は『源氏物語』などの文学作品や 社寺縁起と結び付き、それらが絵画化された。 遺品では、延慶三年(一三〇九)に春日社に奉納され た「春日権現験記絵」(展示M1)、「石山寺縁起」(石山 寺所蔵)や「桑実寺縁起」(桑実寺所蔵)、「聖徳太子絵伝」(四天王寺所蔵)などの鎌倉~室町時代の縁起絵をはじめ、『源氏物語』を表した多くの屏風絵や画帖 類がある。また、中世には山形・谷地八幡宮伝来 の「舞楽図巻」、サンフランシスコ・アジア美術 所蔵「舞絵絵巻」や、『看聞御記』などの文献資料 の記載から舞絵制作が盛んであったことが近 紹介されている。近世に入っては、俵屋宗達の 「舞楽図屏風」(醍醐寺所蔵)をはじめとして、狩野派 による多くの屏風類、また雅楽の研究が体系的 に行われるのと相まって、舞楽を描き連ねる舞楽 図巻の制作も盛んであった。

こうした絵画作品と共に、漆工品を中心に工 芸作品にも多くその図様が用いられた。『源氏物語』が香遊びと結びついたことで、香合や香箱、 文房具、婚礼調度の類に用いられたのをはじめ、 豪華な振袖などの意匠にも取り入れられている。

近代に入っては、作家による立体像の題材に も取り入れられ、大礼などの慶事の際にそうし た作品が皇室に多く収められているのは、雅楽 という伝統文化を伝え続けてきた皇室に相応しいものと考えられたからに他ならない。それは、 日本古来の、また大陸から伝来した当初から、 舞楽は荘厳で華やぎの象徴であり、変わることなく人を魅了し続けていることの証である。

(施主任研究官太田彩/おおたあや)


こちらは1915年にサンフランシスコで開催されたサンフランシスコ万国博覧会の図録になります。個人的にはこちらの方が気になります。第一次世界大戦の最中に開催された博覧会で、当図録は日本側発行の図録ではなく、サンフランシスコで発行されたものになります。当然英語表記です。おそらく2度と手に入れられないと思われますので、各国のパビリオンの写真とともに紹介させていただきます。表紙あるようにまさしくBeautifulです。日本のパビリオンは金閣寺をモデルにしたものと言われています。

「日本の展示品は世界の博覧会で今まで展示されたものの中で最良のものであると言われている」と書かれていますので世界から高く評価されていたようです。

サンフランシスコ万国博覧・Panama-Pacific International Exposition会

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