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明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」等図録買取させていただきました。

明治十二年明治天皇御下命・人物写真帖

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担当スタッフより

歴史関係の図録を3点紹介します。図録は基本的に再版されることはありませんので、出版部数が少なかったりすると、比較的最近のものでも手に入れにくかったりします。

今回はあいにく下巻しか手にいれられませんでしたが、明治期写真帖です。明治天皇の御下命によって制作されたというだけあって、後に日本近代史を飾るにふさわしい人物も多数収録されているのですが、上下に分類されているためその半分しか確認することはできません。特に説明文等はなくタイトル通りほぼ写真集といってもいいでしょう。歴史の教科書に出てくる人物ももちろん収録されています。

明治十二年明治天皇御下命・人物写真帖
明治天皇の御下命によって制作され、幕末から明治維新にかけて功績のあった歴史上の著名な人物から、のちの近代国 家建設の中枢を担った人物たちの若き日の肖像を収めた、全39冊に及ぶ大部の写真帖です。

明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」
当期が所蔵する《明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」は、明治天皇の御下命によって制作され、幕末から明治維新にかけて功績のあった歴史上の著名な人物から、のちの近代国家建設の中枢を担った人物たちの若き日の肖像を収めた、全39冊に及ぶ大部の写真帖です。 平成25年1月から3月にかけて当館で開催された、第61回展覧会 「明治十二年明治天皇御下命『人物写真帖』一四五〇〇余名の肖像」で初公開され、各方面で大きな注目を集めました。

この写真帖の制作にあたっては、明治十二年から翌十三年にかけて、宮内省の主導のもと、 大蔵省印刷局が撮影、写真帖制作を担当しました。収録された人物写真の人数は、有栖川呂幟仁親王を始め皇族15方、諸官省の高等官ら4531名に上ります。写真帖に挿入された写真の台紙からは、大蔵省印刷局以外にも、その当時、各人物が赴任していた国内外の写真館において、それらの写真が撮影されたことが明らかになり、明治初期の写真史研究の上でも貴重な資料であると言えます。

本収蔵品目録は、先の展覧会の後に行った再調査と整理によって、改めて判明した内容を含め、4531名総ての人物写真を収録することで、この《明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」》の全容を紹介します。今後も、この肖像写真に関して新たな情報が寄せられることと思いますが、これを契機に当館では本写真帖についての調査研究をさらに進め深めて参ります。 そして本写真帖を通して明治初期の写真技術や写真師等の研究が深まり、明らかになってい くことを願います。


大奥にのみ焦点を当てた珍しい図録です。「幕末の江戸城大奥」。次回いつ手に入れられるかわかりませんので紹介させていただきます。

幕末の江戸城大奥
宮家・公家・武家等、様々な身分を出自とした御台所や将軍生母達の暮らしの実像や、華やかな江戸城大奥の運営を解明する

江戸城大奥は、御台所や将軍生母達の生活の場であり、将軍の世子を養育して家の存続を図るための場でした。
德川記念財団所蔵の資料を中心に、宮家・公家・武家等、様々な身分を出自とした御台所や将軍生母達の暮らしの実像や、華やかな江戸城大奥の運営を解き明かします。

江戸城大奥は、表と奥という江戸城本丸御殿の二つの基本的な空間構造のうち奥空間の最奥に位置し、将軍にとっては御台所(みだいどころ)とともに世子を養育して家の存続をはかるという役割をもっていました。

また、御台所や将軍生母たちの生活の場でありました。 本展では、公益財団法人德川記念財団が所蔵する、幕末の大奥を彩った御台所や将軍生母に関する資料を中心に展示します。

宮家や公家、武家など様々な身分を出自とした彼女たちの〝風儀〟と、彼女たちが集まる江戸城本丸御殿の大奥という場に注目し、その実像を考えたいと思います。また、留守居という大奥の取締りを掌(つかさど)った男役人にも注目し、華やかな江戸城大奥の運営についてひもときます。

さらに本展の結びとして、明治維新における徳川宗家存続に果たした彼女たちの役割を紹介します。 これらを通じて、江戸城大奥で生活した御台所や将軍生母の暮らしぶり、男役人が関与することによって成り立つ大奥運営といった、知られざる江戸城大奥の一側面に想いを馳せていただけましたら幸いです。


はじめに
将軍家・大名家の女性たちは広い意味で幕藩政治の担い手であった。とくに将 軍の正室(御台所)・生母、世子の夫人(簾中)は、幕藩間の贈答儀礼の面において 中心的な存在で、諸大名は彼女らに端午・重陽・歳暮、参勤の御礼といった定例 の献上物のほか、将軍の代替わりや将軍宣下、将軍家家族の誕生、元服、入輿な どの際にも、臨時の献上物を贈った。そのありようは彼女らの政治、社会におけ る位置づけを考える上で、重要な意味を持つ。その総体を把握し、時代による変 化、恒例化の過程を明らかにし、献上物の内容・多寡などを比較すれば、各時代 の各人の将軍家内の位置を測ることができる。

また御台所をはじめとする将軍家の女性たちが、公的、国家的存在であったこ とは、以下の事柄からも明白である。幕府は、将軍や天皇、その近親者が死去す ると、全国に普請や歌舞音曲などの停止を命じた。これを鳴物停止令という。 その対象者に将軍の御台所や生母が含まれている。中川学氏によると、幕府の鳴 物停止令は十七世紀半ば以降全国に触れられ、規制内容・停止日数に差異を設け ることにより、将軍を頂点とする対象者を序列化した、将軍の御台所や生母 たちもその中に位置づけられている。

そして彼女たちには位階が授けられていたことも、その存在が公的、国家的で あったことを端的に示している。ここでは従来触れられることの少なかった御台 所・簾中と生母各人の叙位・贈位の事実を確認するとともに、彼女ら相互の位置 をめぐる問題に言及する。

一 御台所・簾中の叙位・贈位

江戸時代、武家で位階を授けられた女性は、初期には徳川和子の入内のさい 「母儀代」をつとめた阿茶局(と、家光の乳母の春日局の例があるが、 その後は将軍の御台所と世子の簾中、生母に限られた。夫が将軍にならない限り、御三家の夫人であっても叙位・贈位されることはなかった)。

表1は歴代将軍の御台所と、世子の簾中の叙位・贈位をまとめたものである。 一見して明らかなのは、次の事柄である。 1 生前に位階を授けられた叙位、死後位階を贈られた贈位とがある。 2 叙位・贈位されるのは御台所だけではなく、夫が将軍となる前に死去した簾 中にも位階が贈られている。 初代・七代・十五代の正室は叙位・贈位されていない。 – 授けられた位階は、従一位、従二位、従三位である。 5 十四代正室和宮は維新後内親王として品位を授けられている。

生前に叙位されているのは、四代御台所浅宮(高嚴院)、六代御台所熙子(天英 院)、十代御台所五十宮(心観院)、十一代御台所定子(広大院)、十二代御台所楽 宮(浄観院)、十三代御台所敬子(天璋院)である。ただし四代御台所の叙位につ いては、疑問とせざるを得ない。宝永六年(一七〇九)、熙子の従三位の叙位に関 して、『徳川実紀』に「御台所にて御叙位あるは、先々いまだ例なしといへども、 こたびは京よりとりわけ仰進らせらる、によれりとぞ聞えし」。とあり、熙子 が最初であると思われるからである。熙子の叙位は家宣の将軍就任を契機として いる。熙子はこの後、家継の将軍宣下にともない従一位に叙せられ、「一位様」 と呼ばれた。五十宮の従三位叙位も家治の将軍宣下と同時である。建子の場合 は、家斉の将軍宣下後に結婚したためか、しばらく叙位されておらず、寛政九年(一七九七)、御台所となって八年後に従三位に叙されている)。その後是子は、 従一位、さらに従一位に昇進した。文政五年(一八二二)の従二位昇進は、将軍家 斉の従一位左大臣、世子家慶の正二位内大臣昇進と同時で、家慶の簾中楽宮も従 三位に叙されている。簾中の生前叙位はこのときが最初である。建子の従一位昇 進は大御所家斉の死後の天保十三年(一八四二)のことで、以後「一位様」と呼ば れた。歌子の場合は、その沙汰に及ばない内に家定が死去し、家茂の将軍宣下後 に従三位に叙されている。

位の最初は二代御台所達子(崇源院)である。達子は秀忠・家光上洛中の寛永 三年(一六一六)九月十五日に江戸で死去した。十月十八日に葬礼を挙行、増上寺に葬られた。一月二十八日、宮中で贈従一位の宣下があった。四代御台所高級続、五代鶴台所信子(浄光院)の贈従一位は達子の例に倣ったものであ あ、九代の藤中央区(議明院)は従二位に贈位されており、十三代の簾中二人も これ綴った。観後,位に殺された十代御台所五十宮(心観院)は死後まもなく 識を隠られ、一周忌にあたって従一位を贈られており、十二代御台所楽 外観もこれに微い死後まもなく従二位、七回忌に従一位を贈られている。


こちらは「徳川御三卿」徳川記念財団の図録になります。

徳川御三卿
江戸時代の「御三家」といえば「尾張、紀伊、水戸」ですが、「御三卿」って・・・?

家康公の子供たちを始祖とする尾張、紀伊、水戸徳川家の三家は一般に「徳川御三家」と呼ばれて誠に有名で、すでに 「御三家」という言葉自体が一般名詞化しているように思われますが、徳川「御三卿」という名称は、歴史好きの方でな いと御存じでない方が多いように思われます。

御三卿とよばれる三家のうち田安徳川家、一橋徳川 橋門内にそれぞれ屋敷を頂いて誕生した家であり、清水徳川家は九代家重公の二男重好公が同じく清水門内に屋敷を頂い たもので、いずれも御三家のような独立した領地と家臣団を持つ大名家ではありません。夫々賄料として約十万石を頂き、 家臣も幕臣が夫々の御家付きとして奉公したものですが、この三つの新しい徳川家は、いわば将軍家の身内としてそれ以 降の徳川幕府の運営のなかで数々の人材を生みだし、幕府を支える一種の人材プールとして重要な役割を果たしています。 長い時間の流れの中で、「御三家」がだんだん「遠い御親戚」となって行くのに対し、新しい「御三卿」はあくまで身内と して江戸城内に住む新しい存在となりました。

十一代将軍家斉公は一橋徳川家二代治済公の長男ですから吉宗公の曾孫であり、彼とともに寛政の改革を進めた老中松 平定信公は田安徳川家初代宗武公の七男で吉宗公の孫です。家斉公は大御所時代を含めて五十年に亘る治世のなかで文化・ 文政の繁栄の時代を作り出しましたが、まあ、なんともお子様が多かったことでも有名です。その七番目の子供が紀州徳 川家を継ぎ、その子供、つまり家斉公の孫が十四代将軍の家茂公です。幕末に活躍した越前松平家の松平慶永公は田安家 の出身ですし、最後の将軍慶喜公が謹慎されたあと、徳川宗家十六代として静岡藩七〇万石の当主となり、後に貴族院議 長として昭和の時代まで活躍した公爵徳川家達公も幼名は田安亀之助で、田安家から徳川宗家を継承しました。大政奉還 の実務を幕府側として指揮した元津山藩主松平確堂公は家斉公の十七男です。

「家」という概念が急速に失われつつある現代ではだんだん感覚的に解らなくなって来ているのかも知れませんが、徳川 幕府を「家」という角度から見ますと、家光公の血筋が絶えたあと、紀州家の吉宗公が新しい徳川家を作り、その新しい 「家」を守る新しい御三家が「御三卿」であったと考えるのが解りやすいのかも知れません。従来あまり知られていなかっ た御三卿の姿を少しでも御理解頂ければ、今回の展示の企画を行ったものとして喜ばしいことと思います。

平成二十二年十月

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