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岡部嶺男展・神の手

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担当スタッフより

岡部嶺男展・神の手

ごあいさつ
爽秋の候、皆様方におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。 平素は格別なるご愛顧ご用命を賜り、有り難く厚く御礼申し上げます。 この度、天満屋では「生誕100年 神の手 岡部嶺男展」を開催させて頂く運びとなりました。 岡部嶺男先生は、大正8年(1919)現在の愛知県瀬戸市に加藤唐九郎の長男として生まれ、 窯道具製造業を興し窯業技術全般に詳しい祖父の教えで幼時より陶磁器に親しみ、少年期には既 に一流の技術を自ら研究し、編み出すに及びました。

昭和2年(1947)復員後、本格的に作陶生活を再開して、織部・志野・黄瀬戸・灰釉・鉄釉 など戦前の十代で既に自ら成し得ていた国焼復興による技法を元に作域を広げ、中でも器体全面 に縄文を施した織部や志野作品は極めて独自性が強く、高い評価を得ました。 「後年、日本陶芸史上の謎として名高い「永仁の壺事件」の混乱を経て、青磁(蓋)の研究に没頭、 風格ある器体に「粉青瓷」「翠青瓷」「窯変米色青瓷」など独自の釉調と釉色の青瓷を纏う格調高い作 品を生み出すに至りました。

生誕100年を直前にして、先生を高く評価されていた小山富士夫氏の郷里で、父・加藤唐九 郎との関わりと別離、小山富士夫氏の真意、嶺男先生の生き様など、先生の次女岡部美喜氏の全 面的なご協力を仰ぎ、「永仁の壺事件」の真実に迫り、また岡部家秘蔵の傑作四十余点を一堂に展 観して、天才と謳われた岡部嶺男先生の全貌をご紹介させて頂きます。 何卒、ご同好の方々お誘いあわせのうえ、ご来場賜ります様ご案内申し上げます。


三峰窯の思い出・宮様とやきもの

三峰窯(みつみねがま)は,御殿場御別邸で療養生活を送られていた秩父宮雍仁親王殿下の陶芸に親しみたいという思召しにより,昭和25年(1950)に陶芸家加藤土師萌によって築かれた窯です。三峰窯の名前は,御殿場御別邸から眺められる富士,箱根,愛鷹の三峰,そして宮号と縁の深い秩父三峰との関わりから,殿下によって名付けられました。殿下は加藤土師萌の指導を受けられて,年1回3年間にわたって陶芸制作を行われ,限られたわずかな機会にも関わらず,やきものに対するご関心や学究的なお人柄が偲ばれる優れた御作を遺されました。その御作の数々は殿下が薨去された昭和28年に,東京と大阪で開催された「秩父宮御遺作展」によって多くの人々の注目を集め,翌年には御作を後世に伝えるべく有志の方々の熱意により,秩父宮御遺作図録『玉葉流芳』として一書にまとめられました。

雍仁親王殿下が薨去されてからしばらくの間,三峰窯は閉じられていましたが,その後再び皇族方や親しい方々がお訪ねになり,秩父宮妃勢津子殿下を囲んでやきもの作りを楽しまれました。高松宮宣仁親王殿下と同妃喜久子殿下もたびたび三峰窯を訪ねられ,ご制作のひとときを過ごされました。両殿下は美術全般にご造詣が深く,お作りになった茶碗などには,いずれの器にも洗練されたご趣味が窺えます。

本展では,旧秩父宮家と旧高松宮家のご遺贈品の中から,三峰窯にまつわる陶芸作品や,その指導に当たった加藤土師萌など両宮家に縁の深い陶芸家の作品を紹介します。

本展開催に当たり,貴重なご所蔵品を出品いただきました御殿場市(秩父宮記念公園)に厚く御礼申し上げます。


〈三峰窯の窯印・銘印と箱書〉

三峰窯の窯印はもともと加藤土師萌が考案したもので ある。名前の通り角枠のなかに三つの山型を組み合わせ たデザインで、雅仁親王殿下や勢津子妃殿下の御作の一 部や加藤の作品に押されている。殿下はその他に御自身 の作であることを示すため、お印の若松に因む松葉をか たどった窯印を用いられた。また、妃殿下は「勢」の刻 銘やお印の菊を用いられた。一方、宣仁親王殿下はあま り銘印を用いられなかったようであるが、一部の御作に

は「宣」の刻銘や鉄絵銘が見られる。喜久子妃殿下はお 印の撫子をかたどったものや、「喜」の字をいくつかの 書体で銘とされている。

なお、「初」の印銘は、昭和二 十五年に三峰窯に初めて火入れされた、初窯の作品のみ に押されたと推測される、稀少なものである。 三峰窯の御作の特徴の一つとして、雅仁親王殿下の御作には勢津子妃殿下の箱書が、宣仁親王殿下の御作には 喜久子妃殿下の箱書が添うことが挙げられる。勢津子妃 殿下は蓋表に御銘だけを書かれており、喜久子妃殿下は 蓋表に「宣仁親王御作」、蓋裏に御銘とお名前をしたた められている。

ここではその一例を示し、併せて勢津子 妃殿下が御銘「面影」(出品番号2) に因んで詠まれた御歌 を、そして喜久子妃殿下が御銘「歌名(夜やくらき)」(出品番号史)の出典となった和歌を、それぞれ蓋裏にお書き になった箱書を紹介する。当館所蔵品に限れば、和歌が 書かれた箱書は、わずかにこの二作品だけである。


Memories of Mitsumine-gama Kiln– The Princes and Ceramics

Foreword

Mitsumine-gama Kiln was constructed by ceramist Kato Hajime in 1950, in response to Prince Chichibu Yasuhito’s interest in creating ceramics, while recuperating at the Prince’s second house in Gotemba. The name “Mitsumine-gama” comes from the “three peaks” (mitsu means three, and mine means peak) seen from the Gotemba second house, namely the mountains Fuji, Hakone and Ashitaka, and the three peaks of Chichibu, closely related to the Prince’s family name. The Prince created ceramics guided by Kato Hajime once a year for three years. Although the chances were limited, his works are superior suggesting his interest towards ceramics and his academic personality. His works received much attention at the Posthumous works of Prince Chichibu Exhibition held in 1953 at Tokyo and Osaka after the Prince passed away. In the next year due to the enthusiasm of related persons, the Prince’s posthumous works were published in a catalogue titled Gyokuyo Ryuho in order to place them among history.

After Prince Yasuhito passed away, the Mitsumine-gama Kiln was closed for a while, but then members of the Imperial Family and close people visited and enjoyed creating ceramics once again with Princess Chichibu Setsuko. Prince Takamatsu Nobuhito and Princess Takamatsu Kikuko often visited Mitsumine-gama Kiln and spent time creating ceramics. Both of them were well versed in art in general, and all of their works such as tea bowls, show their refined tastes.

In this exhibition, we will introduce the works related to Mitsumine-gama kiln among those bequeathed from late the Prince Chichibu and late Prince Takamatsu families, along with works by ceramists with deep connection to both families such as Kato Hajime who guided them.

We express our deep gratitude towards Gotemba City (Chichibunomiya Memorial Park) for lending their valuable works to this exhibition.
January, 2009

The Museum of the Imperial Collections,
Sannomaru Shözökan


馬板・獅子頭展・祈りの造形美

馬板・獅子頭展・祈りの造形美
馬板は山の神信仰に係わる馬の版木である

馬板は山の神信仰に係わる馬の版木である。 山の神に興味を持ち、馬板探訪の旅をした事があるのでその時のノートを基に岩手県・新潟県・長野県の例を紹介してみたい。

岩手県遠野地方では旧暦六月十五日になると馬板を使って紙に馬を刷り、その馬札を竹に挟んで田の畦や田 の水口、神社の境内、氏神等々に突き刺している。 これはウマツコツナギとかマツコアゲの日と呼ばれる田の神送りの行事である。馬は神様の乗り物であるので 田植えを無事に終らせ、今年の豊作を約束してくれた田の神様がこの馬に乗り、お駒さま(駒ヶ岳)に帰り山 の神になるのだと言い伝えられている。馬札は馬の姿だけだが、そこには目に見えない神様が乗っているとい う事なのだろう。 ごく稀には馬の背に「山の神」と彫ってみたり、猿か神様らしき姿が乗っていたりする馬板もある。

実は当初は馬板を使った馬札ではなく、ワラで作ったワラ馬だった。神様が乗る馬と道中の食料を背負う馬 の二頭立てが普通だったので、例えば水神様、氏神様、お田神様、山神様、稲荷様、八幡様等まつる場所が多 い家では十二頭も作らねばならず、手間が大変だったのかあるいは紙は貴重だったかもしれない。馬板にも白 馬(白抜き)と黒馬の二頭立てのものは多く見られる。自分が見た遠野の馬札では全ての馬の口元に御飯粒ら しき物が擦り付けられていたが場所によりクゾの葉に包まれたシトギという米の粉を練ったものを馬札に付け ている所もあるらしいので自分が見たものもシトギだったかもしれない。

新潟県でも馬は神様の乗り物であるとの考えから、山に入る前に馬板で馬札を刷り、山の神に供えて今年の 山仕事の安全を祈る行事が残っている。新潟県では山の神を十二様と呼ぶ所が多く、この行事も十二講とか十 二山の神講と呼ばれていた。ある集落では馬板と言わず馬型(ウマカタ)とかエンマ型と言っていた。三月十 二日の十二山の神講の日、馬板で刷った馬札をモミジの枝に結び、その枝を持って近くの祠や鎮守様に供えた。 その時、弓矢を二組、甘酒、赤飯、コンブ、小魚等も一緒に供え、半紙に墨で的(マト)や「奉納、十二山大 神」等と書き込んで飾り付けもした。祠を拝んだ後、弓矢で的を射てから大空に向かって呪文を唱えながら矢 を放つのである。弓には七本・五本・三本の縞模様が付いていたが何か謂れがあるのだろう。祭日については 三月十二日以外、二月十二日、四月十二日、十二月十二日と必ず十二日に行っている様だ。ただしそれ以外で も春に雪が融けて初めて山に入る初山の時には行っている所もある。馬札を供える場所も石の祠、大杉の枝、 神社、熊狩り小屋の神棚等々地域により様々である。

十二月十二日の山の神の日に十二頭の馬札を二組の弓矢、御幣をお宮様にまつり、馬札には村の人が乗って狩りに行くのだと言っていた人もいた。

ある神社では一枚の紙に十二頭の馬が刷られ、弓矢に結びつけられて奉納されているのを見たことがある。 一枚の板に六頭彫られた馬板があるが十二回刷るのは大変なので二回で済む様にしたのだろうか?
馬板は各家庭で持っている所もあれば神社の世話の人が代表して持っている所もあった。全体的に小型の馬板が多かった様に思う。 又馬板の左右に十二山神と川神と彫られたものがある。新潟のものだろうが川神と彫られているのが面白い。

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