紀伊国名所図会など版本地誌大系を紹介致します。

「紀伊国名所図会」(以下「名所図会』とする。)は、紀伊国(伊都・那賀・名草・海部・在田・日高・牟婁郡)の寺社・旧跡・景勝地などの由緒や来歴を実景描写の挿絵と平易な解説で紹介した地誌である。
うち初編から後編までは木版刷りで、熊野篇(牟婁郡)は活版印刷として刊行された。また後編を除く初編から熊野篇までのほとんどが高市志友の原稿及び遺稿によってなされたと言っても過言でないだろう。本書の形態は大本で、美濃紙本袋綴の藍表紙である。文字は十三行、ほぼ二五字を基本として、漢字かな交じり文で、よみがなが全巻を通じて付されている。
ここで、この「名所図会』の実質的企画者であり、初編および第二編の編者であり、出版者でもあり、さらに、ほぼ全編を通じて稿を起こしていたと考えられる、帯屋伊兵衛こと高市家七代目志友伊平次および高市家の略歴について、田中敬忠氏の研究(「高市志友」1田中敬忠先生頌寿記念会編、昭和五四年刊、「紀州今昔」所収)、その他に依拠しつつ、若干触れておきたい。
まづ、高市家についてであるが、高市家は元和五年、紀州藩初代藩主となる徳川頼宜が、駿府より入封の際に随従し来った御用商人の一人で、その祖は名を六郎兵衛と称し、当初材木商を手広く営んでい た、とされる。
このことは、文化十二年(一八一五) と推定される支五月付で、同家八代目志文伊兵衛が書き留めた「乍恐御内意奉申上口上」(以下「口上」とする)に現れている。口述したものの覚書という性質上細かい点でいくつかの疑問の余地は残るものの、全体としてその内容を否定することはできない、と考える。 この「口上」によれば、志文の祖父六代目帯屋長次兵衛の代に当る宝暦年中(一七五一~一七六四)、江戸中屋敷焼失に際して、多額の冥加金を上納し、その功によって藩より感状を賜ったとしている点か ら、かなりの富を蓄積していたであろうことが推測できる。また、明和年中(一七六四~一七七二)には、 薬種屋仲間に属すると同時に「書物商売」をも営んでいたと明言しているのである。そしてさらに「…寛政七辰三月、紀勢御領分之名所旧跡神社佛閣図絵開板之義奉願上候処、御許容被為成下、…」 として、名所図会開板の官許を得たことも記しているのである。
以上によって、帯屋はもともと材木商として手広く営んでいたが、何時の頃からか薬種屋株を手に入 れ、少なくとも、明和期には、薬種商と書物商を兼ねている存在になっていたこと、寛政年間には出版 事業を始めていたことなどを指摘することができよう。