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参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図等買取させていただきました。

参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図

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参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図等買取させていただきました。

参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図
本図群は明治19年-20年にかけて出版されたドイツ式一色線号図式による銅板図9面の測量原図である。

当時の地図作成組織の概要 
明治に入り、地図作成は多くの官庁ではじめられたが、その中でも内務省の地理局と参謀本部の測量局が中心 的なものであった。

最初に三角測量に着手したのは、明治5年(1872) 3月、その前年工部省に置かれた測量司で、翌年11 内務省地理寮(7年1月)の設置とともに編入されている。その頃の諸官庁の改廃と統合は維新後の混乱期で、 あり、まことにめまぐるしい。そんな中で8年には関東地方に大三角測量(1等三角測量に相当する)がいい これ10年1月地理寮は地理局となった。やがて18年12月には太政官制度下から内閣制度下に移行、維新期 新しい時代に入る。その間、地理局には地籍・地誌・測量の3課が置かれ、官有地管理・地目転換・海水面埋立. 地誌編纂・地図調製・気象観測などが行われた。 「地図作成としては前に述べた5年の三角測量は英国人マクヴィーン(マクウェン)を測量師長として他にも の英国人を招聘、その指導の下に行っている。基線は本所相生町、皇居の富士見櫓を第1点として13点の三角点 を設置している。この成果は、後に地理局の五千分一東京実測図として実を結んでいる。 一方、この成果は同時に今回の参謀本部測量局にも使用され五千分一東京図の誕生につながる。

測量局は、明治5年兵部省から分割設置された陸軍省の参謀局に、その前年に置かれた間諜隊で、7年には第 5課(地図を分掌)。第6課(測量を分掌)となり、何回かの課名変更ののち、明治11年参謀局は参謀本部となり 第5課・第6課はそれぞれ地図課・測量課となり、12年には小菅智淵(のちの初代陸地測量部長)が測量課長に 任命されている。16年には田坂大尉のドイツからの帰朝により地図の様式をフランス式からドイツ式に変更して おり、その間メートル法をも採用している。明治17年(1884)年6月、太政官達により測量事業の1本化ということから、地理局の測量・測地部門、いい換えると従来から先進的であった技術・機器を併合させ、9月には測量課・地図課を測量局として独立させた。これより本格的な地図作りがはじまり、18年秋には正式測図(現今の 基本測図)を箱根地方よりはじめ、21年(1888)5月には陸地測量部条例が発布され、わが国を代表する測地・調 量・地図作成の官庁陸地測量部の誕生となり、その成果は現在の国土地理院に継承されている。


五千分一東京図の測量原図と製版図 

本図群は明治19年-20年にかけて出版されたドイツ式一色線号の式による銅版図9面の測量原図である。製版図の一面はこの図の4面すなわち小側板よりなっているので、9面都合36面あることになるが、第7号第2板にあたる部分が海のため欠となり、計35面である。しかしこのほかに、試作図としてか「第1号第2測板西北部」 (この図の色が作成当時の彩色と思われる)と称する一面があり、都合36面が国土地理院に保管されている。 この原因は明治9年測量が開始された当初にはフランス式の「地図形式」(明治6年刊)の図式により製図される予定であったが、明治10年に起った西南の役で測量が中断され、製図するに至らなかった。明治14年測量が再開された時点において「兵要測量軌典」(明治14年刊)が制定され、図式は「地図形式」に準拠したフランス式〇彩図式が採用されたのをうけ、華麗な〇形図式で測量原図が作成された。測量原因が〇彩式であるにかかわらず、刊行製版図が一色式である理由は、当時の陸軍の組織事情によるもので、明治の陸軍建軍時には、軍費・人脈等の関連から旧幕府の組織と装備をそのまま引継ぎフランス陸軍方式を 採用していたが、明治3年の普仏戦争における両国の軍制を検討した結果、我が国の軍制としてはドイツ陸軍の 参謀本部方式を採るべきであると判断し、明治17年軍制をドイツ陸軍方式に変更したことによる。五千分一東京 図の図式もこの軍制の変更が直接影響し、測量原図はフランス図式によって作成されたが、製版図においてはドイツ式によることになったものである。


作成経過

五千分一東京図の作成経過を示す公文書は現在までに発見されていないが、その断片がこの作業に従事した陸地測量士・大島守一の覚書に記るされている。その覚書は大正4年1月、三交会が刊行していた「三交会誌」第16号に載った「陸地測量部測量事業沿革之概略」で、これによれば、

 同八年十二月皇居予距ル周囲約三里以内/地五千分一ノ尺度ヲ以テ三角及地形測量二着手不可も旨ノ命アリ依テ専ラ其 備二從事、其三角相互距離、二乃至二百米下三角測量同時二地形測量一着于七:其編制測手三名大二名一 シテ都合四組ナリ此主任小福田半、矢島守一、日和佐良平、早乙女あ房ナリ、当時測大工兵方面一鳶職五十名/常備ア リンヲ以テ此者/内ヲ撲抜シ使用スルコトヲ得タリ(近年を勤続セン長谷川仙太郎ナル者ハ此鳶職ノ一人ナリン) 同九年一月ヨリ東京附近五千分一ノ測量二着手ス 同年十二月・・・略・・・・・東京附近五千分一/測量一部ハ引続キ之ニ従事セ・・・・・・後略 同十年三月ヨリ第六課員挙テ東京附近五千分一ノ測量二従事ノ処同年西南ノ役起り同五月第六課ヲ初メ課員総テ征討軍団 トナリ・・・・・後略 

と記るされている。この覚書は明治7年より明治16年に亘る記事を載せているのであるが、何故か明治10年3月 以降これに関する記事の記載はない。ということは西南の役終了後第六課一測量課においてこの測量が行われな くなったとみるべきであるが、実際には明治13年2月より開始された関東地方の二万分一迅速測図の事業と並行 して再開され、明治15年に至り測量課第五班の成果として測量図根、測量図稿が完成し始める。明治16年よりそ の事業は第六班に移り、第一班から第五班までは二万分一迅速測図班として関東各地で測量を行っていた。 地形測量は明治17年に終了、韓合製図が明治17年より開始され、完成したのがこの36枚の測量原図である。フラ ンス式這彩図式により華麗に製図された原図は、先に述べた明治17年の軍制改革によりドイツ式一色線号図式に 改められることになり、明治18年より銅版製作に着手、明治19年に完成、明治20年に製版図として刊行されるこ とになる(陸軍省年報による)。ただし宣彩図式の測量原図に関する記事は、なぜかこの年報には記載されていな い。(このような測量原図は地図製作過程の作業資料であるとして公文書類には載せない慣習があるようである)。

以上が一色線号図式の製版図として刊行されるまでの経緯であるが、明治9年より明治10年3月までに行われ た測量成果はどの範囲まで行われ、明治14年に再開された時点においてその延長で測量を再開したのか、また新 たに測量を開始したのか、その疑問を解決する資料は未だ発見されていない。しかして明治8年12月に命ぜられ た皇居を距る周囲3里(12km)以内の測量がなぜ1.9里(7.5km)に縮小されて終了してしまったのか、これも赤証する資料が発見されず未解決である。


作成意図 

このような精密図を作る必要性が奈辺にあり、これがどのように企画されたか。この点については、現存する公文書類では見当らないので、あくまで推測の域をでないが、明治8年12月に測量命令がだされた時点において は、維新革命後の政情の不安(新政府内部の内輪もめ一明治6年の征韓論、明治7年の佐賀の乱、明治9年の萩の乱・秋月の乱・神風連の乱等)から内乱の危険性をはらんでいたため急拠市街戦用に作らんとしたのではない かと思われる。しかるに、維新革命の最大で最後の西南の役が起り、その作業は中断されたが、西南の役において作戦上地図がいかに重要な役割を演ずるかが確認され、測量機関が充実されることになる。

そして作戦用の地図の必要性が高まるにかんがみ、内戦用に明治13年、関東地方の迅速測図が命ぜられる。こ の迅速測図が内戦用に作られたということは、その測量記録たる「偵察録」の記載内容を一読すれば明瞭である。 すなわち「偵察録」には、地形にあっては道路の軍隊行軍、河川の渡河の可否、渡船場の状況および民情、人口、 牛馬等の数、作物の出来高等戦争に必要なる諸元を余すところなく記録している。

この迅速測量に続いて、五千分一東京図の測量が明治14年より再開されたのは何故か? やはり一抹の政情不 安による新政府の本営たる東京市街の内戦用市街図が必要とされたのではあるまいか。地形表現のためのコンターは勿論、上水道、井戸、一軒一軒の家屋描写(木工・完工の別)、また、皇居内、軍事施設の描写等、市街戦に おけるあらゆる諸元を刻明に描写していることでもうなづける。

そして、新政府の基礎も固まり政情に不安がなくなった明治20年に、この図を一色線号図式の製版図として世に出すことになるのであるが、この時点において皇居内の描写は抹殺されて空白になり後の地形図の犯し難いパターンの原形が作られる。

もう一つの観点としては、明治5年以来、文官系の測量機関で三角測量が始められ位 歩先んじていたのを是とせず、陸軍においても三角測量はできるという見本を作るためにあえてチャレンジしたと考えられないこともない。 

しかして、文官系の地籍用、武官系の市街戦用の精密な五千分一東京図が完成した時点において 政府は両系の測量機関を一つにまとめて、明治17年以降陸地測量は陸軍の掌握するところとなるのである。


こちらは古地図というわけではないのですが、比較的珍しい地図です。横浜市全域航空測量写真大鑑

横浜市はこの十有余年,宅地開発,道路の新設, 拡張,整備,港湾の埋立て,公共施設の充実等, 全国の各大都市の手本ともなるべき,きめの細か い都市計画により大規模な変貌を遂げております。 そこで,これらの情況を的確に知る資料として, 地図は種々出版されておりますが,数学的な精度 は地図に委ねるとしても地物の実体を一目で正確 に把握する為には,必ずしも充分でないと思います。

そこで航空測量写真に携さわる我々としては 何か物足りなさを感じておりました。 地図と航空写真は今日において、車の両輪の如く, 双方相まって需要の増大しているあらゆる分野に 地理的事実を提供すべきだと思います。専門的な 方はもちろん,そうした特定の人だけでなく,広 い階層の人々にも役立てて頂きたく, 写真上に道 路,市街化及び調整の区分線,町名,要所に名称, 番地等を記しました。


こちらは地図ではなく大正博覧会写真帖です。大正3年に開催されたものになります。

大正博覧会写真帖・大正3年
東京府の主催であるとは云へ全国各府県は勿論台湾・朝鮮・樺大・満洲に租借地中華民国に至る迄悉く之れに参加

時は大正三年花爛漫の候を期して々大正博覧会の開催を見る事になった、此の學や新帝御即位の大典を紀念し奉り兼ねて日露戦役後に於ける国運勃興の誓を温ね改元に伴ふ殖産興業の向 上を促進せしめんが為めである、従つて一東京府の主催である とは云へ全國各府縣は勿論臺灣、朝鮮、樺大、満洲に租借地 中華民国に至る迄悉く之れに参加してここに建国以來の一大博覧会を見るの盛況に達したのである

一会場に於ては天神山及び鶯溪上、博物館構内等を蔵かし第二会場に於ては辨天堂前より東照宮石段附近に至る数千坪を増加したり又別屬さして青山練兵場芝浦の二箇所に飛行機陳列場を設く。

出品区域と各館東京府主催なるも出品区域に全国各府縣及租借地全地に亘り規模殆んど従来の內国博以上にして出品を十四部に大別す即ち一 一 教育及び學 二 美術及び美術工藝 三 農業及び園藝」 四林 五水産六飲食品 七 採鍼冶金八化學工業 九 染織工業-製作工業十一建築及室內裝飾 十二機械船舶及經氣十三 土木及通運十四経済及衛生等にしに是れが陳列館は左の十二に分たる。

農業、運輸、工業、外岡、休業、機械、水球、染紙、城山、美術、教育、学費、拓殖等其他私設館は幾百棟皆壮美を尽せり

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