沖縄空手古武道等武道書買取事例。特に柳生流の本は貴重ですね。ありがとうございました。

はしがき
本書は、志なかばにして不慮の死を遂げられた恩師を悼み、併せて生前の御意志を後世に永く伝え残したい一念に て著わすものである。本来、武の道は、不立文字である。書物で伝えうるものではない。それは、強い意志に支えら れた教える者と教えられる者との真摯な心身のぶつかり合いの中から体得されるものである。
一つの形とは言え、活字に出すことには大きな無理と限界があり、その抽象化が免れない。武道の書は、一般の書 物と次元が違うのである。
よく店頭で一般普及用の空手書をみかける。一般大衆の理解を求めるべく大変な御苦労をしている。その努力には 頭が下がる。しかし所詮は、誰が見てもわかったようで、実は何もわからず、わかっているのは同門者だけなのであ る。一見わかったと錯覚するのは、そこに述べられた普遍的な武道理論や精神主義又は、写真入りの基礎知識だけで ある。だが、これは本質論から言って当然のことと言えよう。土台、書物にそれ以上のことを要求するのが無理な話 なのである。
その意味において、本書も例外ではない。 ただ本書は、対象を同門者、とりわけ上級者層においた。従って、入門的諸説明は一切、割愛し、直接『形』から 入ることにしたのである。しかしその『形』掲載も手順だけを記したにすぎない。なぜなら各箇所の技の解釈におけ る微妙な使い方、呼吸法、運足法等は紙上では適切に説明できないところが多く実地指導以外不可能であるからだ。 武道の書は、頭で読むのではなく身体と魂で読むものなのである。
尚、本書に掲載した『形』は、すべて亡き師より文字通り心血を注いで御教伝頂いた貴重なものばかりである。頁数の関係上、その代表的な『形』だけの掲載になりましたが、あとの残りの部分については次の機会に各々の『形』 の解釈研究編に合わせて発表したいと思っている。
又、各々の『形』紹介の末尾には、剣聖宮本武蔵著『五輪書』の「火の巻」、「水の巻」(若干)をかかげ、兵法上 の心得や勝負の駆引きを古典に学ぶ形式をとった。
「武蔵の生死を賭けて闘い、生き抜いた真剣な勝負論には現代人の我々にも、生きる上において検刺たる数多くの示 唆を与えてくれるものがある。この原文そのものは、実に難解であるので神子侃氏の現代語訳にたよることにした。 空手古武道鍛練のかたわら一つ一つ熟読碗味してもらいたいものである。
ともあれ、亡き師の受け継ぎ残された沖縄空手古武道の精神と実技を正しく保存継承するのが、我々門人達の使命 であり、責務である。貴重な文化遺産の保存継承。これは人間ならではのことではなかろうか。同志諸氏よ。この人 間としての自覚と誇りを共に分かち合おうではないか。それが亡き師に対する最善の供養と言えよう。
今般の出版にあたり、公私共々御多忙中のところ、貴重な時間をさいて、亡師の為に追悼文をお寄せ下さいました参議院議員の喜屋武真栄先生、ならびに沖縄首里聖アンデレ教会司祭兼琉球キリスト教奉仕団特別養護老人ホーム所 長の池原貞雄様、それに師健在中、撮影された多数の写真やプロローグを自国アメリカから送ってくれた同門者の口 バート・テーラ氏に対し、ここにあらためて衷心よりお礼申し上げます。
更に又、発刊に際し、多大のお骨折りと助言を頂いた七尾武明氏、沖縄空手道史に関し特別寄稿をしてくれた会員 の飯森茂氏へも同様に、ここで深く謝意を表したいと思います。
昭和五十七年九月
海老原
この流儀は徳川将軍家の「御流儀」として余り公開されず、又尾張柳生家にては、その伝書等一切門外不出であったから、これを知る由もなかったのである。

はしがき一
本書は、剣道史的のことや、考証的の ことは之れをごく簡略化して、他書に譲り、一超 直入、使い方の「本陣」へ進んだ。
一、柳生流と言へば、兵法(ひょうほう、剣道、剣術)の流名として誰知らぬ者はない程と思われるが、その内容について、又、その剣技につぃては如何なる使 い 方があるかは殆んど知る者はないようである。 それもその筈で、この流儀は徳川将軍家の「御流儀」として余り公開されず、又尾張柳生家にては、その伝書等一切門外不出であったから、これを知る由もなかった の である。
二、柳生流は、新陰(しんかげ)流である。新陰流が流祖上泉伊勢守秀綱より正統第二世石舟斎柳生宗厳(むねとし)、第三代兵庫助柳生利厳 (としとし)に相伝、代々その 子孫に相継がれた。 柳生宗厳は伊勢守秀綱より「柳生流」と号することを許されたの である。柳生流即新陰流。不二一体の流儀である。
あとがき
私が柳生先生に入門したのは大正六年十月であった。その年の四月頃、私は郷里に近い栃木県小山町(今の小山市)の駅近くに住んで居られた神道無念流八幡十郎先生の御宅を訪問して、剣道について色々と御話や、修業上の御注意や、殊に初め師を選ぶことの如何に大事なるかなどを懇々と聞かされた。八幡先生は頭を総髪にされ、脊高く、眼ギョロリとして、絵に見る昔の塚原卜伝のようであった。言語中枢を犯され て いたど様子で、側で 奥様が介添して話して呉れたが、誠に人なつこい感じであった。その時、草餅をど馳走になつたことを今でも覚えて居る。柳生先生の所へ入門してから聞いたのであるが、十郎先生の御子息十次郎氏が宮内省皇宮警手として、済寧館の「柳生の生徒十人」中の一人であったこと奇しき縁であった。
– 東京柳生道場は牛込区若松町の、当時台湾銀行総裁であった柳生一義先生の邸内にあり 碧幡館といっていた。碧棒館の建物は、今は鎌倉円覚寺に寄付され同寺境内に居士林として残っている。